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熊本藩細川家目白下屋敷(肥後細川庭園、和敬塾、永青文庫など)

「江戸の全大名屋敷跡めぐり」記事一覧

明治以降も細川家の本邸となった場所

54万石:(肥後、豊後)
所在地:文京区目白台1丁目1、21、26と22から25の大部分
最寄り駅:東京メトロ有楽町線江戸川橋駅、護国寺駅、副都心線雑司ヶ谷駅、都電早稲田駅

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 幕末に細川家の下屋敷となり、明治中期以降は細川家の本邸となりました。江戸時代は現在の幽霊坂のあたりまでが屋敷でしたが、明治になって現在の目白台運動公園あたりを買い足し、ここに壮大な邸宅を建てました。
 しかし震災で損傷を受け、この部分を放棄し、昭和初期に現在の和敬塾敷地に邸宅を建て、肥後細川庭園に残る松聲閣も利用しました。

1)肥後細川庭園

 明治初期の地図で池の形が現在と変わらないことから、庭園部分は江戸時代に整備されたものと思われます。形式的には池泉回遊式という大名庭園に典型的な形式で、幕末時に細川家の世継ぎだった細川慶前の妻・鳳台院が住んでいたという説もあります。
 敗戦後の財産税で細川家もこの屋敷の多くの部分を売却することとなり、庭園部分を含む敷地は西武の堤康次郎が買います。そして松聲閣などの建物部分は、在日米軍相手の「細川ホテル」として開業します。

 しかし朝鮮戦争の終結で在日米軍が大幅に削減され、このホテルは成り立たなくなり、堤は土地を分譲地として売却しようとしますが、このタイミングで1960年、都が買収して公園となります。この時の名称は「新江戸川公園」でした。1975年には文京区に移管され、その後大規模に改修されて2017年に肥後細川庭園と改称されます。
 松聲閣には細川家ゆかりの品々の展示や、公園の歴史などの解説もあります。西武は都に売却する前に、一部分譲を始めており、肥後細川庭園前にある巨石は戦前は敷地内にあったものですが、その外側を分譲してしまったため敷地外になってしまいました。

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