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本当に邸宅を出ていった敬三---23区渋沢栄一ゆかりの地

2021年の大河ドラマ「青天を衝け」は私のお気に入りの大河ドラマでした。しっかりした考証を背景に、日本の近代化に大きく貢献した渋沢栄一の生涯を描きました。2024年、渋沢は新1万円札の顔となります。ドラマの放送をなぞりながら、23区内などの渋沢栄一ゆかりの地をご紹介していきます。

23区 渋沢栄一ゆかりの地案内一覧

第40回「栄一、海を越えて」

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 ああ「青天を衝け」が次回で終了だなんて!!
 さて今回は栄一の各種役職引退から始まりました。1909年(明治42年)6月6日のことです。翌年古希(70歳)になるのを機に、ドラマでは第一銀行と東京銀行集会所(現・全国銀行協会)以外の役職は退くと宣言しました。実際には東京貯蓄銀行(協和銀行などを経てりそな銀行)の会長も辞めずに続けました。これらも辞任して実業界を完全に引退するのは1916年です。
 前回紹介した渋沢事務所に主だった会社の代表21人を集めて宣言し、61の会社と17の諸団体にその意向を伝えました。吉沢亮くん、老けてきましたが69歳には見えないです(笑)。
 続いて栄一は伊藤博文邸を訪れます。史実では6月30日です。この場所はドラマのテロップにも出ていましたが大磯邸です。

伊藤博文大磯別邸(旧滄浪閣)
神奈川県中郡大磯町西小磯

最寄り駅:JR大磯駅

地 図

 あー、ここは東京じゃないですねえ。でも一応紹介しておきましょう。なんと栄一はこの時、まだ日本に入ってきたばかりの自動車を使って訪れています。新し物ずきだったのですねえ。しかし大磯から東京に帰る途中、平塚あたりで交通事故を起こし、なんと車は道路を外れて横転してしまいます。
 栄一は奇跡的に指にかすり傷を負っただけで、列車に乗り換えて東京に帰りました。自動車もその後戻ってきたそうです。なかなか強運の人です。
 さて大磯ではどんな会話をしたのでしょうか。栄一と伊藤が会ったのはこれが最後です。このあと渡米中に伊藤はハルビンで暗殺されるわけですが、その際のコメントで栄一は「1869年以来40年、最大の親友だった」と述べ、その後は悲嘆のあまり話すことができなかった、ということです。
 栄一と伊藤はお互い忙しい中、記録が残るだけでこの年に4回も会っています。渋沢栄一が1万円札の肖像になると決まったときに韓国の一部から「帝国主義の手先を肖像にするとは」と非難されましたが、栄一の第一銀行は、韓国の実質的中央銀行化を目指しており、韓国統監であった伊藤とは密接に話し合う必要もあったのでしょう。
 明治天皇から絶大な信頼を受け、嫌がる明治天皇に政党政治を認めさせ、天皇親政を抑制して立憲政治をある程度作り上げた伊藤の功績は偉大です。国際協調路線を進め、文官でありながら韓国駐留軍を指揮下に置き、穏健な統治を目指した伊藤の死は、その後の日本にとっては大きな損失でした。伊藤は栄一より1歳若く、暗殺時に68歳でした。年上の山縣有朋が1922年まで生きたことを考えると、実に惜しい死でした。
 この時点で伊藤は、日常の執務としては赤坂の韓国統監官邸を使っていました。伊藤はこの年の6月14日に統監を辞任していましたが、その後もこの公邸を使っていたのです。さて今はちょっとびっくりする施設になっています。どこでしょう?

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