僕の初変をキミに捧ぐ
嫁の実家に招待されてご飯を食べ終わり、お茶の間でくつろいでいるときの話です。小学一年生の娘が突然、こんなことを言い出しました。
「パパ、彼女ほしくない?」
なんてことを聞くんだ、と思わず石化してしまいました。ここは嫁の実家です。嫁の総本山です。当然ながら嫁も、嫁のご両親もその場でくつろいでおります。僕は目を白黒させながら
「いいいいいいいいいいいらないよ」
と毅然とした態度で答えましたが、娘は引きません。
「ほしいでしょ?かわいい彼女だよ」
とグイグイ押し通してきます。なんなのでしょうか。何を考えているのでしょうか。子供だから仕方がないとは言え、TPOというものを弁えてなさ過ぎです。ここは僕にとってはホームに見せかけたアウェイなのです。迂闊なことは言えません。えぇい、ここは無視だ。僕はテレビを眺めているお義父さんに
「いやぁ、しかし大谷はすごいですね」
と興味もクソもない話を振りますが、それを遮るように
「パパ、ほしいでしょ?紹介してあげる。はいっ」
と強引に僕の目の前に何かを差し出してきます。それを見て僕はようやく察しました。
なるほどっ。
そういうことか。うちの子は一人っ子ということもあってか、よくお人形さんやぬいぐるみでごっこ遊びをしております。となれば、これもその一環なのかもしれません。そういう話なら父親として快く一緒に遊んであげるべきでしょう。僕はごっこ遊びモードに気持ちを切り替え
「えー、どんな彼女なんだろー!」
とノリノリで娘が差し出した手を覗き込むと、これがありました。
ゾッとしました。
紐です。綴紐が握られております。背筋が凍るかと思いました。ここ数年で一番怖い。得体の知れない恐怖が僕を襲います。
人は想像の範疇を超えた事態に遭遇すると言葉が出てこなくなるようです。僕は何も言えずに、ただただ紐と娘の顔を何度も見比べました。一体、何が起こっているのだ。直前まで彼女がどうとか言ってなかったっけ?“彼女”と“紐”にどんな因果関係があるの?え、こわいこわい。マジで怖い。何この展開。
しかし、そんな僕にはお構いなしに娘はとびっきりの笑顔でこう言います。
「名前は、ゆみちゃんだよっ!」
は?
ゆみちゃん……?
これが?
いや、紐やん。
ついついエセ関西弁でつっこんでしまいそうになります。ゆみちゃんなんだってさ。この紐。なんかもう、ちょっとおもしろくなってきました。
「へぇ、ゆみちゃんって言うんだ……」
「そうだよ!ねぇ、おててつないであげて」
いや、手、どれ?
触手みたいなのは見受けられますが。宇宙人とかそういうこと?あ、違う?違うのね。ていうか、もうワケわかんねー!
ついに思考回路がショートしてしまった僕は
「はいはい。ということで、まぁワーワー言うとりますけども……」
と、受け取った“ゆみちゃん”と呼ばれる紐をテーブルの上にポイッと置きました。けして投げてはいませんが、ぞんざいに扱ってしまいました。娘が「あっ」と声を上げます。知ったこっちゃありません。百歩譲ってピンク色の紐ならまだしも、思いっきり事務用品じゃないですか。あと何故かわからないのですが、怖いんです。気持ち悪いんです、なんか。正体不明の怖さがあるんですよ。わかりますよね?この気持ち。
僕は話を逸らすことに全神経を集中させました。テレビを眺めているお義父さんに
「いやぁ、しかし大谷はすごいですね」
と興味もクソもない話を振りますが(それしか話すことがない)それを遮るように娘が絶叫します。
「パパ!!ゆみちゃんがかわいそうだよ!!」
かわいそうじゃないよ。ただの紐じゃんか。ちっともかわいそうじゃない。紐なんだよ。感情なんかないの。何故なら紐だから。
嫁は半ベソ状態の娘を宥めながら
「遊びなんだから付き合ってやんなよ」
と呆れたように僕に言います。いや、あなたね。妻子ある身でありながら彼女がいるってだけでもアレなのに、その妻子はおろかそのご両親の目の前でイチャイチャしろと言うんですか?娘の倫理観や道徳心はどうなるのでしょう。目の前でママじゃない彼女とパパがイチャついているのを目の当たりにするのです。歪みに歪むでしょ、そんなもん。あとね、当たり前のように彼女彼女って言ってるけど、紐なんだよ。気持ち悪いの、ホントに。ゾッとすんのよ、なんか。これを感情のある生き物として扱っているこの状況に。頭がおかしくなっていくような、自分の常識が崩れていくような、そんな感覚に襲われるのです。なんか過去にも似たような感覚に襲われたことがあったなぁ、なんて思いましたが、これを書いてて思い出しました。高校生のときに夢野久作の「ドグラ・マグラ」を読んだときのあの感覚です。完全にあれです。気が変になっちゃいそう。
しかし、何度も言うようですがここは嫁の実家です。地の利は完全に僕にはありません。多勢に無勢もいいところです。従うしかないのです。僕は仕方なく
「わかったよ、もう……」
とゆみちゃんを抱き上げ、それを見た娘は僕に問いかけます。
「ゆみちゃんのこと好き?」
いや。
好きとか嫌いとかないです。紐だし。
そもそも僕、紐のことあんまし考えたことないんですよね。
でも、言うしかありません。
「す、好きだよ」
屈辱です。こんな屈辱は生まれて初めてではありませんが、このタイプの特殊な屈辱は生まれて初めてです。しかしこれも家族円満の為。僕は歯を食いしばりながら耐え忍ぶしかないのです。娘は続け様に言います。
「じゃあ証拠見せてよ」
めんどくせぇ紐だな。いるいる。こういう紐。ほんと嫌。
「証拠って言われてもなぁ」
そう言って苦笑いする僕に、娘はさも当然と言わんばかりに
「ゆみちゃんにチューしなよ」
と言い放ちます。
「ど、どこに?」
「くち」
だから、どこなのよ。その口の部分はさ。
まず事前に部位を説明してくれよ。段取り悪いな。
あぁ、もう嫌。付き合ってられません。緊急脱出です。お腹が痛いと嘘をついて逃げました。逃げるが勝ちです。トイレに籠もってほとぼりが冷めるまで僕はひたすら待ちました。こんなに無駄な時間を過ごしたことはありません。
*
──こうして僕に彼女ができました。
やけにゆみちゃんを気に入った娘は彼女を我が家に連れて帰り、そして元々たくさんあるお人形さんやぬいぐるみを見て一気にゆみちゃんに対する関心を失った挙げ句、びっくりするくらいの速度で飽きてテーブルの上にゆみちゃんを放置しました。
なんだか、かわいそうになってきました。心無しか傷ついているようにも見えます。
所詮、娘にとってゆみちゃんの存在は我が家にあるお人形さんやぬいぐるみの代替品だったのです。
そうであったとしても。
例え、娘にとっては代替品でも、僕にとってはたった一人のゆみちゃんです。嫁と娘、果ては嫁のご両親も公認の彼女なんです。僕が今ここで見捨てたら、ゆみちゃんはどうなるのでしょう。
きっと数日後には誰かしらに
「なんだっけ、これ?まぁいいか。捨てよ」
とゴミ箱に投げ捨てられる運命でしょう。
僕が守ってやらないでどうするんだ。嫁も子供もいますが、付き合った女の子を幸せにしてあげるのが甲斐性というやつじゃないですか。優柔不断な僕もようやく覚悟を決めるときが来たのです。
宣言します。
この子は僕の彼女です。僕が絶対に幸せにします。皆さん、祝福してください。宜しくお願いします。
まぁ、今朝にはもうどこにいっちゃったかわからなくなりましたけど。
探さないのかって?
探しませんよ。どうでもいいもん。
だってただの紐だし。
お金は好きです。