三十代の人生が行き詰った話し(ゲイ小説)

俺の人生は行き詰った。

自分の平凡さにうんざりしている。みんな同じだろうが、自分が特別でありたい、という欲望は抱えてしまうものだ。TwitterやTikTokを見れば一目瞭然だろう。だれもが必死でいいねを求めている。あなたは特別だ、と言ってもらいたい。SNSで繰り広げられる承認欲求の渦をみていると、辟易することも多々ある。
そんなこと言っているが、俺自身も自撮りを投稿してしまう。なぜか、辞められないのだ。画像に対していいねがつくと、まだ俺は大丈夫だ、需要があるんだと自分自身を言い聞かせることができる。けれど、ふと我に返った時、自分の承認欲求がとたんに低劣なものに思えてきて、iPhoneに笑いかけている自分に心底、嫌悪感を抱く。いいねになんの意味もないことは、誰もが分かっているはずだ。
 ゲイである自分は好きだ。自分を恥じてはいない。かといって、今の日本でカミングアウトは事実上、無謀としか言えないだろう。東京ならまだしも、俺の住んでいる地方では、まだLGBTが居ることすら想定されていない。だから、俺はストレートの振りをして生きてきた。ここで生活するためには必要だから仕方がない。別に自分を隠して生きている、とかそういう被害者ぶった話しをしたいんじゃない。ただ、ストレートの振りをした人生が三十代になって行き詰ってきた、ただそれだけのことだ。
 三十代に差し掛かると、いつの間にか周囲の同世代が結婚して、子育てを始める。そういう号令でもあったのか、というくらい一斉に。もちろん、俺は結婚子育てについては、最初から諦めていたので、またか、くらいにしか思っていなかったけど。でも、ストレートの振りをするということは、俺にも同じまなざしを向けられるということだ。最初の話しに戻るが、誰もが自分の平凡さにうんざりしている。何とか足掻くが、足掻いたところで大勢の中の一人、という事実が変わらないことに気付く。そして特別になりたい、という果てしない欲求は、いよいよ行き場を無くしてしまう。
 社会というのは上手くできていて、そこに解決策が用意されている。それが、結婚子育てなのだ。人は世代を再生産して、未来につなげなくてはならない。大義名分がある。そのレールに乗れば、後は替えの効かない存在として、夫として、父親として、という特別さを手に入れることができる。
 でも、俺にはその選択肢はあり得ない。だから、SNSを辞められないのだ。
 誰かにとって自分が特別だという、確信を得るために。見せかけの、一時しのぎの確信を求めて。

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