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【分別】世界の独り子ではない

ある日世界が創造されました。

世界は定められた摂理に導かれて、常に流動していきました。

やがて有機体と呼ばれる存在が生まれます。

無数の死と生を繰り返して、有機体は進化を遂げていきます。




時は流れて、有機体の中から、特に高度な生存本能を持つ生物が現れます。

それらは生存に有利となる多くの能力を備えていました。

その中でも「客観視による分別」の会得は、その生物の進化にとって決定的なものとなりました。



世界を無数に分別して様々な意味を与える。

そして、それらに言語によって名前を付与する。

分かたれた意味を組み合わせることで、より有利に種を残すことが可能になったのです。



石は硬い…硬いのなら獲物にぶつけて殺すことができる…獲物の毛皮は寒さをしのぐことができる…毛皮をはぐには石が使える…

など、具体的な生存戦略を立てるのにも役立ちましたが、なにより役に立ったのは、集団を成立させる時です。

分別の対象は、目に見えるものだけではなく、感情といった概念にまで及びました。

それにより、より複雑で多角的な集団を営めるようになり、種を残すのに必要な多くのことができるようになったのです。



分別の能力を備えた生物は、その知的な力を用いて繁栄していくことになります。

地上において勢力を増していくのですが、その心の内面にはぬぐいがたい不安感が植え付けられることになりました。

それは自身が世界から切り離されたという不安です。



分別をするということは、それを行う認識主体を意識するということです。

唯一世界を無数に分かつ「自我」という意識の芽生え。

それは、世界がその「自我」をも内包しているに関わらず、「自我」は世界から独立した存在と思い込みます。



分別という機能をもつがゆえに

「それでは分別を行っているこの存在とは何か?」

と意味付けを自身にも行ったのです。



そのことで「あるがまま」であることができなくなりました。

世界は「ただある」存在ですが、そこから切り離されていると自覚すると、そこに「己の意思」というものが自覚されるようになります。

自分は世界から独立しており、思うままに発心したり、望んだりすることができるという信念です。



実は、その「己」や「独立した意思」も世界に属するものであるのです。

けれども、認識主体はどうしても、その性質上「世界から独立独歩して生きている」と認識してしまいます。



本来は世界に不可分性はありません。

ですが、分別により世界を概念によって意味づけしていった結果、自身が世界から「分かたれた」と感じます。

その思い込みは不安の源にもなり、不幸の原因でもあります。



「あるがまま」でないという思いは、否が応でも自身に意思を生じさせます。

そして、その意思のおもむくままに生きていくことになります。

それは尊ぶべく自由意思と言えるかもしれませんが、世界の因縁から外れているがゆえに、思うようにはいきません。



…その自由意志も、世界の摂理によって生じたものではありますが…



自由意志を持っているのに、それを思うように行えないというストレスは、容易に不幸へと転換されるでしょう。

そんなジレンマを抱えた認識主体は、世界に「私はどうしたらよいのだ?」と挑むように問い続けることになります。

でも、意志が世界から切り離されている(と感じている)以上、答えをもらうことはないと思います。



それは、主体と世界は分かたれているように見えて、本当は唯一のものだからです。

自我が抱いた自由意志も、それを叶えるための困難も、困難を乗り越えるための手段も、すべては唯一無二の世界を無数に分別した結果に過ぎません。

真実は、世界はただそこに「ポンッ」とでもあるかのように存在しているだけです。

その「あるがまま」に(勝手に)無数の線引をして、その区分の一つが「己の意志」であります。

それを叶えるべく頑張ったとしても、それは「あるがまま」の世界で「己」と信じている区分の揺らぎを「頑張り」としているということです。



どうすればよいのでしょうか。

それは「あるがまま」という在り方に立ち戻ることです。

と言っても、分別の器たる主体にそれは難しいでしょう。

己を「あるがまま」から切り離された存在だと思っているのですから。



でも、同時に切り離された「己」も世界であります。

主体が「己の意思」としていることも、世界のゆらぎが発露されているということです。

唯一世界は、独立したと信じているあなたをも内包しています。

そのことに気づくことです。



川のせせらぎが聞こえる静かな川辺がいいでしょう。

そこで流れの優しい音を聞きながら、世界をただ感じて、思うがままに思ってみましょう。

すべてをそのままに受け止めてみるのです。



そんな所作を続けていると「あるがまま」と「分別」の境が感じられなくなってきます。

分別の結果生み出された思いや概念も、ただ純粋に感じられる世界も、分け隔てられていないと感じる時がきます。

その体験をすると、本質的な意味で、世界の安寧に自身が包まれていることを確信できます。



そんな体験をしても、日々の生活に立ち戻れば、また無数の恣意的な分別を行い、世界から切り離された不安感や不幸を味わうことでしょう。

でも、体験があると、それすらも世界であることを確信できます。

そして、そんな分別をする自身も含めて、世界に優しく包まれていることを感じることができます。



世界はひたすら「あるがまま」です。

その真たる景色は、分別によって生まれた無数の存在も、摂理に基づく調和のもとに在ります。

そのことを(言語化はできませんが)体験することで、あなたは揺りかごに憩う赤子のように、世界に安住することができるようになるでしょう。

どんなに苦難と分別される人生であっても。

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