「母親役」を得られなかったわたしは、ふりきって「母親役」をこどもたちに与えていた。(前編)

今思えば、完全にそうだったと思います。

わたしは家庭環境で「母親役」をしてくれる女性がおらず。
「共依存の母親」と18年も暮らしていたせいもあって、
その後も「母親役をしてくれる人」と繋がることができませんでした。

そして、20代前半に経験した中絶。

この時のショックから、精神を壊したわたしは
生きながらに「生を失う」経験をしました。
そして、その時のわたしを「救ってくれた」のが2歳の女の子。
当時、離婚して実家に戻っていた妹の子供です。

2歳の彼女は、もちろん
わたしを「助けよう」などとしていないし、
そんなこと思ってもないです。
どこにでもいる、一般的な「普通の2歳児」です。
特別な何かを持っている人でもなんでもない、「普通のこども」です。

でもわたしは、
その「普通のこどもの姿」を日常的に「感じる」ことで、
結果「生を取り戻す」というプロセスを経ていきました

そんなこと予定してなかったし。
「こころが死んでいた」わたしは、当初「何もない」状態で。
何かを考えることもなかったし、先のことはもちろん
今のことでさえ、何も考えられない。感じられない状態になっていました。

そもそも、
わたしは、仕事を辞め、家を引き払い、
「本当は戻りたくないけど戻るしかない実家」に戻るのです。

それが、どのくらい
わたしにとって「さらに心が沈むこと」だったか。
けど、そうするしかないので、また「こころ閉じる」方向になるわけです。

だから、
本当に「不幸中の幸い」でした。
姪が、わたしの「生活空間」にいる暮らしができたことは。

その期間、約6ヶ月。
回復するのに、それが早かったか遅かったかはわかりません。

心療内科には2回通いました。
初めてのカウンセリングで
わたしは人生で初めて「自分の家庭環境のこと」を
「人に話す(口に出した)」
ということを経験しました。

全然、そんなこと言うつもりもなかったのですが。
自分の中に「溜まりすぎていた」のです。

気がついたら、そんな話をし出していて。
初めて会う男性カウンセラーさんを目の前にして
嗚咽を吐きながら、30分大泣きました。
自分でも、びっくり。
そして、とても恥ずかしかったのを覚えています。

カウンセリングを利用できて、
とても良かった。
ですが、泣くだけ泣いたあと、
わたしはこう確信したのです。

「わたし、もうカウンセリングの必要はない。
そんなものでは、わたしの『こころの問題』は解決するはずがない

と。
先生には失礼ですが、自分の中で勝手に確信めいたものを感じました。
2回目のカウンセリングは、親に促されて行きはしましたが。
今度は落ち着いて受けて。それっきり、いくのをやめてしまいました。

なので、
もし姪がいなかったら、
回復する術がありませんでした。

実家ではというと、
わたしは、なんにも「できなかった」ので、
本当に何もしていなくて。実家でただ、寝起きしていた。

具体的なことは全く覚えていませんが、
実家の祖父母と両親、妹と姪たち。その人たちの生活の中に
幽霊のように紛れているだけの日々でした。

最初、姪の存在をわたしは「うっとおしい」と感じていました。
意味もわからず、ムカムカする。
姪は「意地悪な子」でも「悪さをしてくる子」でもなく、
普通に、かわいく。ザ・2歳児の特徴を持って生きている人。

当時はわかりませんでしたが、
ふりかえると
わたしは自分が「中絶をして失った命」のことに罪悪感と
自己嫌悪の念を強く深く抱いていました。

だから、
目の前の「生きている『生』」に対して
八つ当たり、嫉妬。のような気持ち、感覚だった
と思います。

姪は全く悪くないし、無関係。
なのに、そういう感覚を、どうしても感じてしまっていました。

直接彼女に何かイヤなことをしたり、
言ったりすることはありませんでしたが。
ただ、自分の中で「感じている」だけでも
気分がいいものではなく、そんなことを感じてしまう自分を
できるだけ「無」にすることが、わたしが意識していたことです。

が、徐々にです。

わたしは、
姪を感じたり、姪と一緒に
何気ない時間を過ごしていく中で
どんどん「笑顔になること」が戻ってきました。

笑えるようになったのです。

それが、まず最初の「変化」でした。

笑えるようになってからは、早かったと思います。
どんどん、いくつかの「失っていた感情」みたいなものが
ハッキリ戻ってきて。

気がつけば、
自然と「元気がある自分」に変わっていった。

この頃からです

わたしの
「無条件の愛」的なものに
灯火が灯った
のは。



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