反語

アスピー兄さんこと長男は今年33歳だが、何年も、あるいは十何年も前のことを、急に言い出すことがある。「あの時、嫌だった」って。昨日は、なんかの拍子に「お母さんが我慢しろって言ったから、我慢した。」と言われた。あ~あの時の話か、あの時も同じことを言われたなと、断片的に記憶がよみがえったものの、詳細は忘れてしまっていて、自分が言った言葉だけを思い出した。「じゃあ、死ねって言われてたら、死ぬの?」私は、全責任をおっかぶされたような気になり、そう言ったんだった。あの時は、いい大人が(といっても大学生の時だったかな。結局中退したけど)全部お母さんのせいだと言うのが情けなくて、力任せに投げかけた言葉だった。このやり取りに対する「長男の解釈」と「私の解釈」には相当な違いがあったことが、今日になってやっとわかった。

マジョリティ(一般の人、普通の人、定型の人、社会に適応している人、つまり長男とは違う人たち)は、長男からすると、テレパシーを使って話をしているように見えるらしい。俗に言う「空気を読む」ということだが、言葉にされていないその場の文脈・背景がまったくと言っていいほど感じ取れない。そのため、ドライブ中に誰かが「見て!」と言っても、いつも見つけそびれてしまうのが長男だ。ドライブ中→つまり外の景色のどこか、声→右から聞こえたのか、左から聞こえたのか、などの情報を利用したり統合したりできない。おそらく「1時の方向」などと言えば、見つけられると思うが、日常生活でそのような言い方をするマジョリティはいない。長男の解釈は、「み」「て」という2文字だけで、見るべきものが分かるマジョリティが不思議でしかなく、いつ何時も「み」「て」だけで分かるんだ!と過大解釈してしまう。TVのついたリビングで、スマホの画面を見ながら座っていた長男が、同じくスマホの画面を見ながら座っていた私に「見て!」と言った。ADHD気味の私は一つのことに夢中になりやすいので、長男が期待するほど素早く反応できなかった上に、長男が見ているスマホの画面を見るのか、そうでなければTVだけれど、とちょっと迷っているうちに、長男が見せたかったTVのCMの画面は切り替わってしまった。そこで、「普通の人は、『見て!』だけで、何でもわかるんじゃないの?!」と怒り出した。こういうことが、我が家ではよく起こる。

さて、「じゃあ、死ねって言われてたら、死ぬの?」という日本語だが、これは反語表現というものになるだろう。死ねって言われたら、死ぬのか?「いいや、死なない」の部分が共感部分で、言う必要がない当然のことという扱いになっている。長男は、映画の主人公に感情移入してボロ泣きしてしまうこともあるのだが、基本的に人と共感することができない。こちらがいくら「おいしいね」と言っても、「うん、おいしい」ということはあっても、「うん、おいしいね」という言葉は聞いたことがない。どうしてかわからないけど、『共感』にものすごく抵抗する。相手の気持ちは相手に質問して答えてもらわなければわからないと思っている。(意地悪なテクニシャンには、この方式で簡単に騙されてしまうだろう。)そんなわけで、私としては、「いくら命令されたって、なんでもかんでも鵜吞みにして、考えもしないで、判断を下すなんてことはありえないでしょう?」「死ねと言われたって、それを鵜呑みにして死ぬ人なんていないでしょう?」だから、「お母さんに我慢しろと言われたからと言って、なんの判断もしないで我慢するなんておかしいでしょう?」「死なないって選択肢があるのと同じように、我慢しないという選択肢もあるでしょう?」ということを言いたかったのだ。ただし、これは反語表現、共感部分をお互いが理解している前提で成り立つ会話方式になる。長男が言うところのテレパシーだ。その当時の私は、そのことに気づいていなかったので、「死ねと言われたって、死なない」と答えた長男が、「我慢しない」という判断もあるはずなのに、何もかも鵜呑みにして、あくまで「お母さんが我慢しろと言ったから、我慢した」と言い張ることが受け入れがたく、悲しくてしょうがなかった。

そして答え合わせだが、長男が本当に言いたかった日本語は、「お母さんが我慢しろと言ったから、(そのことについて自分でも考えて、その結果、我慢すべきだと判断し、)我慢した」という意味で、簡潔に話そうとすると(そのことについて自分でも考えて、その結果、我慢すべきだと判断し、)の部分は省略されてしまうのだそうだ。なので、長男は、「全部母のせい」と言いたかったのではなく、自分で判断したということを大変短く伝えたということだったらしい。それでは正しい意味が通じないよ、と一つ一つ説明すれば理解でき、自分でも「人には詳細な説明を求めるけど、どうしてか自分がしゃべる時はものすごく省略してしまう(情報がめちゃめちゃ少ない)」という分析をしている。ちなみに「死ねって言われたら、死ぬの?」という言葉を、長年「死ね」と言われていると解釈していたそうだ。そう聞こえていたのだから、つらかっただろう。

今日は日曜の午後3時過ぎだが、アスピー兄さんは連日の寝不足のせいで、グーグー寝ている。寝不足の原因は眼科で、土日のいずれか診察に行く予定にしていたことだった。(近所に土日診察のありがたい眼科がある)行きたくなくても行かなければ薬をもらえないという義務感が長男に重くのしかかり、「大学に行かなくちゃいけない時と同じ状態になっている…」というので、土曜か日曜に行こうと言ったのは私が車で送り迎えできるからで、体調のいい時に次男とバスで行けばよく、今日どうしても行かなければならないわけではなかったんだよ、と言ったら、そのあとは安心して眠ったようだった。梅雨は誰もが元気はつらつとはいかないけれど、長男は無自覚に心身の悪い状態に陥ってしまう。サポートするこちらも、自分の仕事やら何やらで、いつも五月晴れとはいかないけれど、それでもなんとか折り合いをつけて、暮らしていきたいと思っている。


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