国民民主党 第1回憲法調査会「AIと憲法」1

開会挨拶および山本龍彦先生の講義の前半部(憲法に関する一般論・憲法改正について)を文字起こししました。敬称略。

■開会挨拶

(山尾)
皆さんお早うございます。
本当に平日の午前中という、出るのになかなか厳しい時間帯にもかかわらず、こうやってたくさんの方にお越し頂いて本当にありがとうございます。まずは私ども国民民主党の憲法調査会第1回を始めたいと思いますが、代表の玉木雄一郎議員からご挨拶をいただきたいと思います。

・玉木代表

(玉木)
皆さんお早うございます。今日はですね多くの方にこうしてお集まりをいただきました。
いよいよですね、第1回新しい国民民主党としての憲法調査会がスタートいたします。
わが党の綱領にはですね「未来志向の憲法議論を積極的に進める」ということが書いております。でまぁこういうことをこれまでも書いてきたんですけれども、それをまさにですね、実現実施をしていきたいというふうに思っています。
これまでとかく憲法議論となると、どうしてもこうイデオロギー対立になったりですね、特定の条文に対して非常に関心が集まって本来のこの、国民のための国民のものの憲法という議論がなかなかできていなかったのではないかなというふうに思っています。
国民民主党は「つくろう新しい答え」ということをキャッチフレーズにしておりますけれども、この憲法議論の中身についても、またプロセスにおいても新しいアプローチ、まさに「新しい答え」をお示しができればなと思っています。今日多くの一般の方にも呼びかけをしてお集まりをいただいておりますけれども、ぜひみなさんにも協力をいただきたいのはですね、とかくこの右に左に対立するということではなくて、国民の皆さんも含めてですね、ある種白地で自分たちの憲法をどうするんだという観点から、私たちも議論したいと思いますし、みなさんにもそういった観点でのですね、参加のご協力をお願いをしたいと思います。
今日第1回はですね。この後お話を頂きます慶応大学の山本龍彦先生に「AIと憲法」ということでお話を頂きますけれども、私自身も非常にこれ関心のある分野であります。これまであまりですね、議論がされていなかった新しい分野であります。
今菅政権はですね、デジタル庁をつくりましょうとか、DXいわゆるデジタルトランスフォーメーション進めようということでいろいろな施策を打ち出していますが、肝心なものが抜けていると思うんですね。それはデジタル社会になった時に私たちのデータがどのように扱われるのか、どのような権利保護がデジタル時代には必要なのかということが、憲法まで遡って実は基本的人権の一つとして新しい権利として議論することが実は健全な主権者の社会には必要なんではないのか。この議論がすっぽり抜け落ちて単に組織をどうしようということだけではですね、本当の意味での健全なデジタル社会を日本に根付かすことはできないと思っていますので、こういった観点からの議論も行なっていきたいと思っております。
これまでの憲法議論を様々なことが各党でもまた民間団体でも行われてきましたけれども、できればですね私はある程度こう条文の形にして議論をした方が中身のある議論ができるのかなと思っています。
大切なことは私たち国会議員だけで100点満点のものを作ってこれはどうだではなくて、たたき台を作った上で皆さんと一緒にですね、作り上げていくような憲法議論をぜひしていきたいなと思っております。年内に憲法草案をですね、ある程度の概要を作りたいと。まぁその意欲的な目標を持ちながらですね、皆さんと一緒に作り上げていく、そんな議論ができればと思っておりますのでどうぞよろしくお願い致します。

(山尾)
今日は、データの話ですけど光脱毛の話は後ででいいですか。じゃあ後ほどのお楽しみということでとっておきたいと思います。
続きまして、憲法っていうのはあらゆる政策を包み込み、あるいはあらゆる政策の土台になるものだと思いますので、舟山政調会長とも皆さんと一緒に連携をしてやっていきたいと思っております。政調会長からご挨拶をお願いします。

・舟山政調会長

(舟山)
皆様おはようございます。今日は第1回国民民主党憲法調査会ということで、広く一般の皆様にもお呼びかけをしたところ、このように多くの皆様から御参集いただきまして本当にありがとうございました。
今山尾さんからありました、憲法というのはあらゆる法律の土台、国民生活・社会生活の土台ということはもう言うまでもありませんけれども、どこか憲法に対しての議論を避けてきた、そんな傾向があるのかなと思っています。そういう中で私たちは「護憲」「改憲」というこの二項対立ではなくて、やはりまずは憲法を知る、議論をする、その中でここが素晴らしい、ここはちょっと問題だ、そういったことをきちっと一つ一つ議論をして前に進めていく、そのためのこの場がこの憲法調査会かなと思っております。
議員のみならず多くの皆様からご意見を伺っていいものを作る、結果的にはここは残していこうということもあってもいいですし、やっぱここ変えていこう、そういったことにつなげていけるような、そんな議論を一緒にしていきたいなと思っておりますので、どうぞよろしくお願い致します。そういう中で、いろんな専門家、専門的知見から講師の皆様にもお越し頂いたりして議論を深めていきたいと思っております。
今日は山本先生にお越しいただいておりますけれども、まず第1回目として「AIと憲法」、本当に新しい権利がどんどん発生しておりますので、そんな議論をしていきたいとおもいます。宜しくお願いします。

・山尾憲法調査会長

(山尾)
ありがとうございました。それでは私の方からちょっと皆様に資料の説明をさせて頂ければと思います。4種類お手元にあるかと思います。ない時はこれないよとお手を上げて頂ければと思います。
まず1枚目がこの第1回国民民主党憲法調査会の次第、これオモテウラとあります。ちょっと裏を見ていただければ幸いです。「憲法調査会へようこそ」ということで皆さんにお手紙を書かせていただきました。オンライン中継で視聴していただいている方にもこの場でお礼を言いたいと思います。本当にありがとうございます。
憲法の議論とか憲法の草案というのは国民との共同作業だと思いますので、私たちの調査会のキーワードは「参加・対話・公開」という風にしたいと思います。参加できるということでまぁオンラインでもオフラインでも、そしてできるだけ、本当に平日の日中、議員の都合で申し訳ないんですけれども、それでも一般の方ができる限り来ていただけるように、週1回をめどで定例化をしていきたいと思っています。
26日に国会が開会と言われてますけれども、それより前は、今の方針で行くと基本的にこの金曜日の10時12時という形でスタートさせていただいて、また国会が始まりましたら曜日やあるいは時間帯が少し変わってくるかもしれません。その点ご了承いただければと思っています。
国民と充実した対話ということで、やはり1時間だと聞くだけで意見言えなかった聞けなかったということがやっぱり起きてしまうので、できるだけ充実した枠で頑張りたいと思います。そして徹底公開ということで、この場は完全オープン、そしてこの場の記録映像もそしてできれば書き起こしのテキストもしっかりと公開をして、この場のプロセスそのものが今日本で行われているひとつの憲法議論の、公共財として社会に貢献できるように皆で作り上げていけたらなと思っています。少ないスタッフと職員が本当に頑張ってやっているんですけれども、トライ&エラーになると思いますが、どうぞよろしくお願いします。
最後にここに蛇足で書かせていただいたんですけれども、参加者の皆さんに一つだけお願いがあります。それは「違う意見を尊重しよう」ということで、私たちが子どもにはよく言って聞かせるんだけれども、自分ができてないと、私も含めて。ただ、努力をしていきたいと思います。違う意見に出会って「ああやっぱり自分の方が正しい」と思ってもいいですし、やっぱりちょっとなんか自分も変わる余地あるかな、変わっていくっていうことを楽しめるような、そんな場になったらいいなというふうに思っています。
そして、まあこの紙はそんな思いで書かせていただきましたので、どうぞお手元に置いていただいて、あとアンケートがございます。これさっき私が手描きで描いて、初めて右下にこくみんうさぎを描いてみたんですけれども、本当に下手糞な絵ですみませんが気持ちということで受け止めてください。任意ですので、この回経験していただいて、思ったことを自由に書いていただいて、次の次回への改善につなげていきたいと思っています。
そしてまだ早いんですけれども、来週の10日12時の第2回目のチラシもここにありますので、ぜひ可能な範囲でスケジュールを確保いただければというふうに思っています。
そして山本先生の「AIと憲法」この資料自体がとても貴重な資料だというふうに思います。憲法というとまあ9条。9条と言うと敷居が高い。しかしその敷居をまず最初にふっと下げて、でも今の時代に一番大切なテーマのひとつである「AIと憲法」ということを山本龍彦先生に最初のスタートとして語っていただきたいというふうに思います。慶応大学の法学研究員の教授、あと憲法の専門家です。そしてこの「AIと憲法」という本が本屋さんにも平積みにされていたり、すごく広く読まれていますけれども今日はこのエッセンスそして多分最新の情報も踏まえてお話をいただけるのではないかと思っております。どうぞ山本先生よろしくお願いします。

■山本龍彦先生 講義:AIと憲法(前半)

(山本)
ただいまご紹介いただきました慶応大学の山本と申します。本日はどうぞよろしくお願いいたします。座ってお話をさせていただきます。
先日山尾先生からですね、国民民主党で憲法の話をするのでちょっと来てくれないかということでお声がけをいただいて、安請け合いしてしまったわけですけれども、まさかこんな大きなイベントでですね、オンライン中継までされるということは聞いてなかったなぁという、騙された感がですねあるわけですけれども、いち憲法研究者としてですね、考えていることをお話しさせていただければなというふうに思います。もちろん異論はあると思いますし、異なる意見もあると思いますけれども、後で良いディスカッションにつなげられればなというふうに思っております。大体1時間弱、50分か1時間くらいという事ですので、あまり時間はないのかなと思いますけれども、早速お話をさせていただきたいと思います。
最初はですね「AIと憲法」と申しますよりも、そもそも「憲法とは何か」あるいは「国民主権とは何か」あるいは「憲法改正とは何か」ということについて、一般論ですかね、一般論を少しお話しをさせていただきたいというふうに思います。
最初は「AI」といって日常に最先端のテクノロジーについて語る、そういうお話なんですけれども、非常に古典的なこのレジュメというですね、ハンドアウトされたものを使って申し訳ないんですが、このレジュメの最初を見ていただきたいと思うんですが、まず前提の話で「憲法とは何か」ということにもなるわけであります。
これは憲法の教科書に書かれている、一般的に書かれていることだろうと思いますけれども、憲法とは要するにその統治ですね、統治形態のまあ根本を、これを定める基本法だという風にも言われているわけです。ある教科書の引用ですけれども、国家の構造組織及び作用の基本に関する規範一般のことを「憲法」こういうふうに呼んでいるわけです。
私なりの言葉を使えば憲法というのは政治ですね、まぁ統治システム、これを動かすためのOSオペレーションシステムなのではないか、というふうに思っている訳であります。最初にこのOSというものをプログラミングしてですね、そのOSに従っていえばそのソフト・アプリというのが動いていくと政治というものが動いていく。そういう意味ではもうOSに近い、まあ比喩的に言えば、ものかなというふうに思っているわけであります。
次に「国民主権とは何か」ということも教科書的な説明で恐縮ですけれども、ここに書いてある通りですね、まず「主権」これ3つの意味があると言われていますけれども、ここではそのここに書いてあります「国政についての最高の決定権」っていうふうに理解したいと思います。そうすると「国民主権」というのは、要するにその国政についての最高の決定権をまさに国民が持つことを言うのだということにもなるわけであります。
しかしこの「国政についての最高の決定権を持つ」こととは一体何かということになるわけですけれども、憲法学の実は一般的な理解では、これは憲法を作る「憲法制定権力」、憲法を作るというこの力というんですかね、権力が国民にあるということを言うのだという風に考えられているわけです。つまり憲法というオペレーティングシステム、OSのプログラマーであるというふうに考えることができるのではないか。
さらに「憲法改正とは何か」ということまでお話をすると、それはその制憲者、憲法を制定する我々が、国民がですね、憲法の中に組織化・制度化したものが憲法改正権である。あるいは憲法改正権者としての国民だと。まあこれも先ほどの比喩を使えばプログラマーである国民がプログラムのバグですね、不具合を修正するためのプログラムをプログラミングしておくと、いわばこういうことだろうと思います。もちろんなるべくそのバグがない方がいいわけですけれど、やっぱりその新しい社会課題とですね、そぐわなくなってくるというバグが出てきたりですね、元々プログラマーが想定したようにOSが動かないということもあるわけで、その場合にそれを国民が修正できる、いわばそういうそのプログラムをプログラミングしておく、ということなのかなというふうに思います。
要するにここでお話をした通り、国民に主権があるということの第一義的な意味というのは、実はですね、「通常政治」つまり憲法が定められた後に行われる通常の政治形態ですね、あるいは通常の政治期の時期に国民が直接政治に参加するということでは必ずしもなくて、国民が「憲法」つまり基本法を構築・決定すること、統治の基本的な仕組みを国民が決定することというのが、国民主権の第一義的な意味ということになるわけであります。
このお話ですね、主権、憲法で考えられているような一義的な意味における国民主権というのは、要するにこの憲法という基本法へ直接的に働きかける、こういう権力を国民が持つということにもなるわけですが、これについての政治哲学者のリチャードタックという研究者、学者が2016年に書いた「眠れる主権者」という本がですね、非常に示唆的だろうと思いますのでここで紹介したいと思います。
彼はですね、その「近代人、我々は忙しい」ということを言うわけですね。まぁその古代ギリシャの市民、つまり常に直接政治に関与出来たような、古代ギリシャの市民とやっぱり違うと。例えば奴隷制の有無というのもありますね。つまり日常的なことは例えば、かつては奴隷に任せてその政治というものに集中できるということがあったのかもしれない。
当然現代社会においてはこういったことは許されないわけであります。ですから身の回りのことも自分でやらなければいけない、多忙である。そうすると政治に常に高いレベルで関心を持つということは非常に難しい、という風には言うことができる。そうすると、近代で新たに発明されたデモクラシーのあり方というのは、国民というのは大事なこと「だけ」を直接決めるんだという風に考えられるようになったというふうに彼は言っています。つまり憲法を決めてあとは眠るんだ、主権者というのは憲法を決めた後は眠れるというのが、近代の民主主義というものなのではないか。というふうにまあタックは言うわけであります。
これはいわば主権と統治の分業、つまり主権者というのは基本法を作る、つまりプログラマーとしてプログラミングするということで、あとはそのある種オートメーション化するというんですかね、車で言えばオートマチックに切り替えるということですね、政治を。憲法を作るときにはマニュアルで、自分で憲法を作る。しかし憲法を作ればそのOSで動いていく。というようなイメージが、おそらくタックにあるんだろうと思います。
これはタックの独自の考えというよりも実はホッブス、トーマスホッブス以降の近代の基本的な考え方だという風にも言われているわけです。ホッブスは実はこの主権と統治を分業したこういうアイディアをですね、明示的に出しているのではないかというふうにタックは言うわけですけども、しかしそのホッブスの重要な点は、この30行目にありますけれども、その国民がですね、永久の眠りについてはこれは結局主権というものが横取りされることになる、目覚めるための手続きをまさに制度化しておくことが必要なのではないか、こういうふうにですねホッブスは考えていたというふうにタックは言うわけですね。
主権はその統治者、これはエージェンシー、プリンシパルとエージェンシー、その本人とその委託されたエージェンシーとの関係でいうと、統治者っていうのはまさに主権者によって政治を委託された、まさにその統治者ということになりますけれども、主権者が1回プログラムを作ってそのまま永久に眠ってしまえばですね、委託されたこのエージェンシーである統治者が自らこのプログラムを自分で改変してしまうという問題が起きるのではないか。それはまさに主権が横取りされるということになるのではないか。こういうふうにも言えるわけであります。
最後のところですけれども、今の話の中でお分かりかもしれませんが、実は主権の次元・レベルでの民主「制」と統治のレベルでの民主「政」、ここちょっと漢字を意図的に変えていますけれども、これは異なるということにもなります。ですから、民主制つまり憲法を作るということが国民に留保される、つまり国民にある場合に、統治のモデルとして貴族制を取るとか君主制を取るということは、実は論理的には矛盾しないということになるわけですね。やっぱりこの貴族制というモデル、あるいは君主制というモデルを国民が嫌だと思えば、そこは憲法改正してまたその統治モデルを変えると。つまり最終的にどういう統治モデルを選択するかということは、結局は国民が持っているという限りにおいて、実は君主制や貴族制と矛盾しないという風にも考えられているわけです。
これは実はそのルソーという、フランスの有名なですね、法学者・政治学者いろんな肩書きを持っていますけれども、ルソーは実は直接民主制を主張したという風に言われていますけれども実は彼の直接民主制というのは限定的なものなのではないかということが最近の研究で言われるようになってきています。つまり直接的に関わるのは、実は憲法を作るというその基本法制定の場面であって、実はルソーは貴族制ともその矛盾しないという風に考えていたというような、最近の研究もあるぐらいです。そうすると結局主権者・国民がどのような統治モデルを選択するのかということにですね、通常政治における統治モデルはあるということになろうかと思います。
次のページですけれども、今お話をしたとおりですね、統治主体としては、国民はですね、自らを指名しなくてもよいと。つまり国民が実際の通常政治期において、誰を統治主体とするのかというのは、国民が決める問題だと。仮に直接民主制がいいということになれば、国民はそういう憲法を作るということですね。
ですので、日本国憲法の場合には、後で見るように直接民主制というものを通常政治期において採用していないという風に考えられているわけで、基本的には代表民主制を取っているということになる。
その代表者である、これはまずは国会議員ということになるんでしょうけれども、その統治主体として国民が指名した他者、すなわち代表者による主権の横取りというものを監視・抑制するために、通常政治期においてはですね、憲法を作った後というのは、監視者として国民はまず存在しなければいけないし、あるいはその憲法事項を再設定すると、プログラミングをし直すという必要性が生じた時にスムーズに眠りから覚めるために準備運動をする。主権者というふうにここでは比喩的に書きましたけれども、そういう存在として通常政治期においても、恐らく完全に眠ることができないだろうと。通常政治期においても国民が政治日程に関心を持っておいたほうが政策的観点から見てベターだという風になれば、当然その民主制というものと最も相性がいいのは統治モデルとしての民主制、つまり代表民主制だということになるように思われます。
日本国憲法と今お話をした国民主権一般論との関係について改めて見ていくとですね、日本国憲法の2つの構造的な特徴というものを、ここで指摘することができるかと思います。
一つは憲法改正条項であります。日本国憲法の憲法改正というのは、これは96条に言うまでもなく規定されているわけですけれども、特徴的だなというふうに私が思うのは、この発議権というものが国会に今独占されているということになるわけであります。
アメリカの憲法を見ると、憲法改正の発議、憲法修正の発議というのは連邦議会の両院の3分の2ということが満たされる場合か、あるいはその州の議会ですね、州の立法府の3分の2が、あるいはその発議せよと、3分の2が発議せよといった場合には、憲法会議というコンベンションを開かなければいけないということにもなっているわけです。そうすると連邦機会がやりたくないなぁというような憲法改正も、州のですね、州からのプレッシャーによって発議しなければいけないということにもなるし、連邦議会による恣意的な発議というのは、州によってやはり抑制されるということもありうるわけです。もちろん逆もまたありうるわけですけれども、ある意味この発議において複数のですね、主体が抑制と均衡の関係に立つということが、言えるわけであります。フランスの場合にも大統領と国会がその発議権を競合して持っているというふうにいうわけですね。
日本の場合にはその国会が排他的にその発議権を持つというのは、いわばその国会がやりたくない発議は憲法改正を発議されないと。つまり国民の多くが何かこう、選挙制度とか第二院について何か改善の余地があるんじゃないかと考えても、国会議員の全体がですね、やりたくないというような改正を発議されないということにもなるし、逆に国会議員全体にとって利益になることは、国民がそりゃ嫌だなぁと思っても発議されてしまうということも、可能性もある。これは日本国憲法の改正条項の一つの重要な特徴だろう、まあこういうふうに思っています。
もう一つの重要な特徴は、その簡単概括型という、いわゆる簡潔な憲法典であるということであります。世界的には長くて詳細で、その改正手続きが比較的柔軟な、もちろんこれ通常の法律改正と同じではありませんけれども、比較的に柔軟な憲法典が増えてきているという風な指摘がございます。その中でアメリカの憲法や日本の憲法というのは、異常なほど簡潔なテクスト構造を有しているという指摘があるわけであります。
15行目を見ていただきますと、世界の憲法典の平均が英語のワード数で見ると21,965、特に民主主義国家における憲法典に限ると平均で24,135ワードなのに対して、アメリカ憲法は7,762、日本の場合はさらに少なくて4,998ということですから、かなりさっぱりした憲法典になるというふうにも考えることができると思います。
もちろんこれいろんな理由があるので、一概にこうだからこうだということは言えないと思いますけれども、一つ示唆的な数字データかなというふうに思います。そうするとかなり余白の多い憲法だなという印象を私自身は持っているわけです。
そうするとどういうことが言えるかというと、統治のですね基本的なルール基本法というものを、法律で定めていくということが必要になってくるわけですね。ですから日本の場合には、国会法とか公職選挙法とか地方自治法といったような、本来憲法で決めていくべき統治の基本的なルールが法律と、これは憲法付属法という風に呼んだりしますけれども、形式上法律によって補完されているというふうに考えることができるように思います。
そうするとこの雑駁な図ですけれども、その簡単・簡潔型の憲法典というのは左ですね、つまり統治の基本的なルールの中、つまりこれ実質的意味の憲法と言いますけれども、統治の基本的なルールの中で占める憲法典の割合が、いわば小さい。
それに対して詳細な形の憲法典は、その統治の基本的なルールの中で占める憲法典の割合が比較的大きいと。当然全部を憲法典に書くというのは難しいでしょうけれども、ある程度のことは憲法典で書いておくということになってくるわけであります。
どちらが良いか悪いかというのは、その次のですね、ページのメリットデメリットということにはなるわけですけれども、もちろんこれもまさに主権者国民の選択、つまりどういうフォーマットでいくのかということ自体が、実は憲法改正の重要な論点になるわけですけれども、私自身は今考えるところでは、ある程度書くということも必要なのではないかという風に私は思っています。
ちょっと時間の関係であまり詳しくお話し、メリットもですねほんと重要なので後でまさにディスカッションのところでこの点、論点になるかもしれませんけれども、時間の関係でその3ページ、ページ数も振るの忘れてしまいましたが、3ページの14行目にありますけれども、簡潔型ですね、そして厳格型というのはこれ憲法改正の手続きが厳格だと。それからその結局、憲法改正して余白をですね埋める。憲法改正によって埋めるということをしようと思っても、例えば今の解散権っていうのも、一つの憲法上の論点ですね。
つまりまさにこれは主権統治の根本に関わる、議院内閣制とは何かという、非常に統治の根本に関わる、そういうトピックが、まさにその統治主体によって決められてしまうということは、いわば主権の横取りにも関係する問題であるわけですけれども、こういった重要なトピック、国民がじゃあ解散権を制約しようという風に考えても、なかなかその発議はきっと難しいわけですね。
そういう意味では、憲法改正が非常に難しく、難しいと言ったらいいのか、その発議権が排他的に保たれているということとの関係で行くと、結局のところそういう重要なものというのは、法律の制定や改正を通じて、つまり憲法付属法の修正や改正を通じて決めておかざるを得ないというようなことになっていくと。
これはそのもちろん良い面、非常にプラグマティックにというか柔軟に事態に対応できますから、良い面もあるわけですけれども、重要なのはその憲法付属法というですね憲法典を補完するためのルールというのが、形式上法律によって定められているということになるわけですね。
これ法律を定めるのはこれはまさに代表者ということになりますから、結局のところ代表者によって、恣意的にこの憲法付属法という憲法典を補完するルールが造り込まれてしまう。するとそれはまさにその主権の横取りという問題が起きやすい、そういうモデル、憲法のモデル、フォーマットなのかなというふうに思います。これはエージェンシースラックということで、つまり本来はプリンシパルである本人の利益のために統治を委託されたそのエージェンシーが、エージェンシー自身の利益のためにまさに基本法をつくってしまう、エージェンシースラックという問題が生じやすい構造なのかなというふうに私自身は思っております。
3ページの下のところで、主権の横取りされる、主権が横取りされてしまうリスクが大きい、そういう構造なのかなという風に思います。特に・・・あまりその現在の政治状況のことを語りたくもないところもあるんですけれども、やはり行間とか余白の多い憲法というのは、行間を読むセンスが必要になるわけですね。つまりそれは立憲主義のエートスというかですね、立憲主義の精神・感覚が必要なわけですけれども、その感覚が失われてくるとですね、書いてあるからいいんだということになってしまう。
要するに行間を読めなくなってしまうとですね、特にこのような簡潔型の憲法典というのは横取り率が高くなる。だから政治家に徳があれば、その行間というのをよく埋めていくということになるけれども、そうでないとまさにやっぱり国民が、国民自身のためにこの余白を埋めるということ「も」必要になってくるのではないかということになってくるわけであります。
ですから、やっぱり憲法典っていうのは、従来のいわゆる護憲派という方々は、やっぱりその憲法典を変えるということは、むしろその自由を脅かすのではないかというような理解もある訳ですけど、却ってむしろ自由がそのままであると脅かされる可能性もある。リベラルとはまさに何かということが問われているところではないかなというふうに思うところがあるわけであります。もちろんこれには異論があると思いますので、私自身が今考えていることを話しをしているということであります。
4ページに移りまして、今お話をしたことがここに書かれているわけであります。ちなみに早稲田大学の川岸先生のコメント、19行目から上げておきましたけれども、アメリカの憲法構造についてですね、憲法条項が簡潔で改正も少なく憲法上のテクストで明文化されていない部分に実際の政治実践が影響していることが多く、先ほど話した通りこういう構造を持っている憲法典の場合には、憲法付属法や憲法判例によってその余白を埋めておかなければいけない、埋めていかなければいけないということが多いと。外国人が真似るには格段の努力を強いるものだというふうに川岸先生はおっしゃっています。
アメリカの場合も簡潔なんだけれども、そして今は行間が読めない大統領いるのかもしれませんが、なんていうのか、やっぱりコモンローの体系なんですね。つまり判例法へのある種の信頼がある。ですから憲法典の余白というものを、最高裁判所はこう、まさに立憲主義的な観点で埋めていく、違憲審査制を行使して埋めていくということが行われてきた、部分的に行われてきたのではないかということにもなります。
ところが日本の場合の最高裁は、これは大陸法に慣れている部分があって、コモンロー系のですね、考え方というのになかなか慣れない部分がある。つまり憲法以下の通常法律は基本的に大陸法系のものになるわけですけれども、憲法だけがコモンロー系のものになっている、ということになるとなかなかこの余白をうまく解釈することができない。やっぱり怖いわけですね手法裁量がある、裁判所にやはり裁量があると、やはりなかなか踏み込んだ審査というものが難しくなる。
そういう点でもアメリカと日本というのは構造上の同一性があるわけですけれども、しかしその立憲主義のあり方、あるいはデモクラシーのあり方というのには今お話をしたような違いがあるのではないかなというふうに思います。
さて、だいぶ前置きが長くなってしまったわけですけれども、ここまでがまあその一般論としての憲法あるいは憲法改正の話でした。ここからが本題で、すでに半分ぐらい時間が経過してしまっているわけですけど、AIと憲法のお話をさせていただきたいと思います。

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