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【評論】日本伝統音の深み

「ー(略)ー 邦楽の音は私にとって新鮮な素材としての対象にすぎなかったが、それは、やがて私に多くの深刻な問いを投げかけてきた。私はあらためて意識的に邦楽の音をとらえようとつとめた。そして、その意識はどちらかといえば否定的に働くものであった」

作曲家武満徹氏が邦楽に触れたときのひとつの認識として、自己の感覚で得た発言である。
西洋音楽を扱う作曲家がかかわれば、異なった性質のゆえにつかみずらく、扱いにくい領域であるのは間違いない。

日本の音楽は古来の伝統、ないし楽器の性質から、それでひとつの世界が完結されていて、外側から入ろうとしても、構造的に動かし難いところがある。
変に手をくだすことに困難を感じたというのが武満氏のはじめの印象である。
このことが否定的な感覚となって、行く手が阻まれている状況に、次のように考える。

「複雑で洗練された一音と拮抗するものとして、日本人の感受性は無数の音の犇く間として無言で沈黙の間という独自のものをつくりだした」

日本の伝統美のひとつに「無」の沈黙の存在があって、無と音の連関は無視することはできないものであることに私も異論はない。
無闇に沈黙と音の連関を崩すことは伝統美を破壊していくことにつながるということなのだ。
新しい音楽を作曲する場合、安直な作曲手法で伝統音楽に近づくことの慎重性が問われている。

「つまり、間を生かすということは、無数の音を生かすことなのであり、それは実際の一音(あるいは、ひとつの音型)からその表現の一義性を失わした」

「音は表現の一義性を失い、いっそう複雑に洗練されながら、朽ちた竹が鳴らす自然の音のように、無に等しくなって行くのだ」

古来伝えられている伝統音というのは、ポリフォニーよりも、ヘテロフォニーの概念に近い動きをとる傾向にあることが武満氏の発言から頷ける。

伝統音がひとたび形式というものを投げ打って、自由な音の伸びしろを重要視されてきたのは、本来の特筆すべき美点である。

あまり複雑化させるよりも、そして音そのものと無の境地に味わいを求めるよりも、むしろ音と間の微妙な関係を意識することに正当性があるようだ。

「私は沈黙と測りあえるほどに強い、一つの音に至りたい」

今での積み重ねられてきた伝統を意識し、音の性質、楽器の特性、従来の楽譜構成を踏まえた作曲家の意識を磨くことは欠かすことはできないであろう。

作曲家の音づくりはこうした資源の特性を深く考察して達成できるものと信じている。


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(「 」内のそれぞれの発言は武満徹氏のものとして、吉田秀和著『現代音楽を考える』新潮社 昭和50年5月25日発行 より「武満徹の音と間」から引用したものである。)

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