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(21-11-15)擬人化された英単語が地球を救う。はあ?【小説】ことだまカンパニー 第二十一章 祈り(11)~(15)

十一

 一台目カタパルト、万三郎。

 二台目カタパルト、ユキ。

 三台目カタパルト、杏児。

【hope】たちの誘導、案内役、ちづる。

 ようやく妨げなしに【hope】の打ち上げが再開された。

「次!」

 打ち上げ後の機械のメンテナンスを目視で行いながら万三郎が叫ぶと、次の【hope】がちづるに指示されて登場する。

「よろしくお願いします!」

 万三郎は【hope】と握手をする。握った手がもはや痛むようになってしまっている。【hope】と目を合わせる。心の中で、ありがとうと声をかける。目に見えない何かが、握った手を通じて、また目線を通じて、ワーズに流れ込んでいく。例外なく【hope】は、こちらを見て微笑んだ。

「救国官、光栄です」

 頷いて握手を解く。背中をポンと押してやる。

「はい、そこへ乗って!」

 体重を乗せ、スプリングの効いたハンドルを力任せに手前に引く。これが一番つらい。移動式カタパルトなのだ。ガソリンや電気で動くものではなかった。二メートルほどハンドルを引く動作は、一回だけなら、おそらく腕立て伏せを一回やるよりも楽かもしれない。だが、数えてはいないが、もう五百は超えているに違いない。「うううーおっ!」時には声が漏れる。引っ張るだけ引っ張ると、ついにバチンとラッチがかかる。打ち上げの力が溜めこまれた状態だ。

「準備完了!」

【hope】も、傾斜のあるレールにまっすぐ沿わせた身体を硬くさせ、発射の衝撃に備える。ポンと叩かれた背中が白く光っている。ああ、【hope】が光を放つのは、感動のエネルギーを使っているんだなと、万三郎はふと思う。【hope】オリジナルがさっき言っていたように、彼らにしてみれば、俺はある意味、雲の上の人、カリスマなのかもしれない。東京のKCJ本社の奥深くにいる、Executiveエグゼキュティヴ Traineeトレイニー。ETなんて話に聞く以外、地方の一ワーズにとってみれば、出会えるなんて思ってもみなかった存在。それが今眼の前で自分だけに声をかけて、握手し、背中を押してくれるのだ。それは、受け手である彼ら自身が、【hope】という、何でも素直にプラスにとって感動できる本質を持つからかもしれない。

「行くよ」

「はいッ!」

「発射ッ!」

 手元のパネルのボタンを押す。

 カシャッ!

【hope】は一瞬にして上空へ射出されていく。ことだまワールドでは、ワーズの体重自体はこんなに軽いのだ。それは少々頼りなくすら思える。

 ――これでアポフィスの軌道は、変わるのか……?

【hope】たちは上空で、【-less】や、【no】や、【despair】など、たくさんのネガティヴ・ワーズとやはり遭遇した。しかし先ほどとは違ってエネルギーを分けてくれる者がいないので、彼らは独力で自力飛翔を行っており、その飛翔力は、カタパルトで発射される【hope】たちよりはるかに劣っていた。【hope】たちは、たやすく彼らネガティヴたちの追撃をかわし、背中を明るく光らせながら、次々に宇宙へと飛んで行った。

【hope】という名のワーズたちは、その名に違わず、どんな時でも明るく楽観的でいてくれた。磁気嵐の中、エネルギーを失いながら旅してきても、ネガティヴィティー波で吹き飛ばされても、生産性をあげられないまま刻一刻と時間が経過しても、ネガティヴ・ワーズたちと衝突して消滅するリスクがあっても。彼らは自分たちがアポフィスまで飛んで行って、いくばくかの残存エネルギーを預けて来ることで、人類が、ひいてはコトバが、ことだまワールドが、必ず救われるのだということを一点の疑いも持たず信じているのだ。


十二

「……郎……んざぶろう……万三郎ッ!」

 はっと気がついた。

 万三郎は膝をついて、カタパルトの側面をなぞって崩れるようにステージに倒れ込んでいた。いつまで待っても発射されない【hope】が、おずおずと発射パネルの方を覗き込んで発見したのだ。

「中浜救国官が、倒れている!」

 その【hope】の叫びを耳にして手を止めた隣のカタパルトのユキが、ステージに横たわる万三郎の姿を認めて駆け寄ってきたところだった。

「あ……あれ? どうなってるの」

 座りこんだユキに頭を抱えられ、万三郎は大声で呼びかけられていた。ユキの表情は尋常ではない。

「万三郎!」

 上気した顔と、万三郎が肩で息をしていることに気がついたユキは、万三郎の額に手を当てて驚いた。

「万三郎、大丈夫か」

 杏児も作業をちづるに任せて駆け寄ってきた。

「杏ちゃん、万三郎、すごい熱……」

 杏児も万三郎の熱を確かめて言った。

「万三郎、ちょっと休んでろよ」

 万三郎は意識が戻りきれない中、口を開けて速く息をしながら、じっとユキや杏児を見ていたが、「休んでいろよ」と言われた、その言葉通りの意味をようやく理解すると、ばっと上半身を起こした。

「続ける! 急ごう」

 万三郎は勢いよく立ち上がって、そして貧血でフラッと倒れかかった。杏児がその身体を受け止める。

「万三郎、あとは僕らに任せろ」

 万三郎はかっと目を見開いた。

「いやっ、やれる。やらなくちゃ!」

「無理よ、そんな状態じゃ……」

 万三郎は杏児にジェスチャーで大丈夫だと示して、自分のカタパルトのハンドルに手をかけた。というより、体重を預けてもたれようとしていた。緊張が走ったからか、万三郎は大きく息をするようになっている。

「俺が休んだら、発射能力が、三分の二に、なってしまう。時間が、ない」

「だからと言って、その身体じゃ……」

 ハンドルでは支えられない万三郎の上体を支えようとユキが寄り添うが、万三郎はその手を払いのけた。

「いいって! ユキも自分の持ち場へ戻れ。時間が……」

 杏児が言う。

「万三郎、日本に帰国する前からすでに熱があったろう? ヘリの中でも、車の中でもしんどそうだった。このままだと、こじらせて、死ぬぞ」

 万三郎が笑う。

「それより先に、アポフィスにやられて、死ぬぞ」

「……」

 万三郎は、ハンドルに上体をもたれかからせて、杏児に向き直った。肩で息をしているが、表情は柔らかい。

「ユキ、続けて」

 杏児にそう言われて、ユキは心をそこに残しつつも、自分のカタパルトの操作を再開した。その向こうではちづるが杏児のカタパルトを使って作業している。

「なあ、杏児――」

 杏児は黙って万三郎を見る。

「新渡戸部長はああ言ったけどさ、俺、検体番号JES―〇二九、中浜万三郎になって、良かったと思ってるんだ」

「……」

「俺、どこまでも自分が可愛い臆病者だったんだ。自分が主人公、自分がいなくなったら終わりだと思ってたから。だから救国官なんて任命されて、あまりに滑稽で自分を笑うしかなかった」

 万三郎はユキをチラリと見て少し声をひそめる。

「往きの飛行機で思った。ユキを守りたいって。初めてだった。誰かのために命を懸けてもいいと思えたのは」

 杏児もユキに目をやって、こちらは声をひそめずに答える。

「万三郎、それは、川に飛び込んだユキを追ったお前を見れば分かったよ」

 ユキが驚いた。今初めてそれを聞いたのだった。誰からも聞かされてなかったからだ。

「えっ! 万三郎、そうなの?」

 万三郎はそれに直接答えず、杏児に視線を戻した。

「ユキのおかげで、国連演説で本当の気持ちをぶつけることができた。そうしたら、自分より大切なものを命をかけて守っている人たちが見えてきた」

「……」

「お国に帰らず国連のために尽くす覚悟をしたグプタ典儀長、最後の飛行機に乗らなかった日本政府役人の人たち、今も日本のために必死で指揮を執っている大泉総理、自衛隊の人たち、伊勢神宮の衛士たち……」

「ああ、そうだな」

「杏児、お前だって、そもそも、クレバスに落ちたちづるさんを命がけで救おうとして遭難したんだよな」

「そりゃ、必死だった」

「杏児。俺、KCJに来なかったら、身勝手な生き方のまま、社会人やってたと思う。死んだ親父に生前、お前は兄と違って自分だけが可愛いのだなと言われたことがあって、その心の傷から目を逸らして生きてきたから」

「……」

「だからさ、今、自分より大切なもののために命を捨てられる立場にいられて、嬉しい。日本だぜ。世界だぜ。命投げ出して守るのに光栄すぎる対象だ」

「……」

 万三郎は、少し気合いを入れて、もたれていたハンドルから身体を起こした。

「国連のスピーチでも紹介したが、坂本竜馬が言ったそうだ。『いったん志を抱けば、弱気を発してはいけない。たとえその目的が成就できなくても、その目的への道中で目的に向かって倒れて死ぬべきだ』。俺はそうありたい。救国官だから……」

 一瞬目を閉じた万三郎は、カッと目を空けると、ハンドルに取りつくようにしてつかまり、体重をかけて手前へ引いて行く。

「よし【hope】、行くぞ!」

 それを見て杏児はユキに目で合図した。ユキはそれでも何か言いたそうだったが、杏児が手で制した。そして杏児自身も、持ち場に戻る。

「よしッ、ちづる、撃ち手、代わるよ」


十三

 リアル・ワールドの人工衛星から見下ろせば、超大型台風の厚い雲に覆われた夜の日本列島では、今、一点の光さえも見つけられないだろう。だがもし人工衛星に、ことだまワールドを見通せる特殊なカメラがついていたならば、磁気嵐吹き荒れる中にあって、小さく点在する「希望」の集結地が認められるかもしれない。それらは東京であり、出雲であり、いくつかのことだまゆかりの地だろう。だが、それらをはるかに凌駕する、大きな「希望のかたまり」が、ここ、ことだま伊勢神宮において燦然と輝きを放っているのが見えるはずだ。

 そのかたまりから、光が、細い絹糸のようになって宇宙へと伸びていく……。ひとつひとつの糸は消え入りそうに細い。だが、その繊維に寄り添うように、ひとつ、ふたつ、みっつと、別の繊維が軌を一にする。まだ拙くも、光の束の先端は、漆黒の宇宙空間の上下を分かつようにするすると進んだ。

 希望が、飛んで行く。

 光を放ちながら。

 人々の願いを背負って。

 万三郎はそれから、かなりの【hope】を送り出した。もちろん、ユキも杏児もそれぞれの持ち場で懸命に働いた。そうした中、恵美が言った刻限、午前零時がいよいよ近づいている。

現場はかなり混乱していた。時間が迫っているのに、送り出されずに待機している【hope】の数が多すぎるからだ。だがその状況は、なるべくしてなっていることだった。

 三台のカタパルトをフル稼働させても、一時間に送り出せる【hope】の数は、せいぜい千。それに対して、ことだま伊勢神宮に集まって来ているワーズの数は、おそらく数百万。しかもその数は今、ぞくぞくと増えている。だがそんなことは、三人も最初から分かっていた。

 正直なところ、【hope】一体が保持していることだまエネルギーの量など、ごくわずかだ。そんな彼らは、磁気嵐に抗って各地から伊勢まで出て来るだけでも結構なエネルギーを消費している。その上で、超長距離、それこそ大気圏外の遥か彼方、アポフィスまで飛翔してたどり着く頃には、そのエネルギーをほとんど使い果たしていると思われる。もしかすると、アポフィスにエネルギーを投下する前に、相当数が力尽きてしまっているかも知れなかった。

 そして、そうした無駄死にを防ぐことができるかも知れないのが、ことだまの聖地、伊勢神宮だ。ここは、彼らにとって文字通りのスーパー・パワースポットで、磁気嵐に抗って各地からここまでたどり着くのに要したエネルギーを補って、さらに、アポフィスまでの飛行に耐えるエネルギーを「充電」できる場所なのだった。少しでも長い時間、ここにいることによって、彼らはフル充電されると万三郎たち三人は考えたのだ。

 また、アポフィスは毎秒十五キロメートルの早さで地球に近づいて来ている。できるだけ地球の近くまで引き付けた方が、【hope】たちの飛行距離が短くて済む。飛んでいく【hope】の数から期待できるパワーとの兼ね合いで、午前零時ギリギリに、残る全【hope】を飛ばした方が、アポフィスにぶつけるエネルギーの総量が最大になるという算段で三人は行動していた。

 三人はもともと、カタパルトの存在を期待しておらず、打ち上げ設備がない以上、ワーズたちの自力飛翔に頼るしかないと思っていた。ところが、祖父谷が思いがけず手配してくれていたカタパルトのおかげで、自分たち自身のエネルギー消耗が相当緩和されているのだ。それで、自分たちが予想していたよりかなり長い間、【hope】たちを送り出してやることができている。

 実際のところ三人は、カタパルトで【hope】を飛ばしてみて、その効果に感動していた。それで、可能な限りカタパルトで高エネルギーの【hope】を送り出し、時間が迫ってきたら、やむを得ず残りの【hope】たちに自力飛翔してアポフィスに向かってもらおうと打ち合わせていた。

 そして、そろそろその時間だ。

 これまでカタパルトで飛ばし続けてきた【hope】たちが、高エネルギーでアポフィスに突入して、わずかばかりでも軌道を逸らし得ていると信じたいが、実際のところどうなのか、よく分からない。自力飛翔なら、グレート・ボンズが形成されるほどの数の【hope】が全世界で集まるのでなければ、アポフィスの軌道を変えるなど依然として難しいように思われた。

 それでもそれぞれのカタパルトから、五秒に一体の【hope】をただひたすらに送り出し続ける三人。

 集中していたユキがふと隣の万三郎を見て目を見張る。

「万三郎ッ!」

 ユキが再び手を止めて、万三郎のところへ駆け寄る。自分に触れてくるユキの手が、やけにふわふわしていると万三郎は最初思ったが、すぐに気づいた。

 ――ふわふわした触感になっているのは自分の方なんだ。もう俺は、気力だけでもっているんだ。

 まるで、ろうそくの残りがわずかとなって、炎の熱で液体になっている蝋の中に、灯芯が今にもパタリと倒れこんで、フッと終焉の煙を立ち昇らせそうな、そんな状態になっているのだと自覚する。

「杏ちゃん! 万三郎が半透明になってる!」

 杏児は今カタパルトに乗せた【hope】を飛ばすためにハンドルを引きながら叫んだ。

「よし、僕もそろそろ限界だし、タイムリミットが来そうだ。残る【hope】たちには自力で飛んでもらおう」

「万三郎はッ?」

「ユキ、こっちは僕とちづるに任せてくれ。ユキは、覚醒して万三郎の介抱を頼む!」

「分かった!」


十四

 ユキの意識がリアル・ワールドに戻ると、冷たい雨粒が文字通り顔に突き刺さるようにぶつかってきていた。ユキはまず痛みに顔をしかめる。

 ――何てこと……。

 信じられない。風向きが逆に変わっている。レシプロを始めた時とは比較にならないほどの暴風が、ゴーッと音を立てて雨粒をほぼ横向きに運んでいた。いわば建物の中庭にあたる、しかも屋根付きのこの奉納舞台にさえ、今や雨が容赦なく吹き込んできている。台風の中心がいままさに近辺を通過中なのか。

 三人は、衛士から支給してもらった、頭からかぶるタイプのポンチョ型の雨具を着用してレシプロに臨んだ。そのおかげで身体の外側から濡れることはなかったが、顔からしたたる滴が首回りから服や下着を濡らしていったようで、ユキの身体も体温を奪われつつあり、気がつくと身体の芯からの震えに襲われた。思わず雨具の下で両腕を抱く。

 闇に眼が慣れてきた。

「万三郎ッ!」

 ユキは万三郎がレシプロしたまま能舞台に仰向けに倒れているのを発見し、絶叫した。万三郎の向こうでは、杏児がこの風の中、辛うじて座禅を組んだ状態で座り続けている。その体勢だったため、杏児の身体はユキと同様、雨具によって雨から護られていた。万三郎の身体は倒れていたため、雨具が風でめくり上げられ、ズボンから上着まで雨に晒され、ビショビショに濡れている。

「万三郎!」

 ユキは万三郎の元へ膝行して、顔を抱き上げ、両頬を両手で挟んでみた。

「冷たい……」

 今も刻一刻と体温が奪われているのだ。もちろん意識はなく、震えていない。非常に危険な状態だというのはユキにもすぐ分かった。

 その時、正面のガラス掃き出し窓が勢いよく割れて、人間二人分ほどもある折れた木の大枝が、横倒しの状態で能舞台の目の前まで飛び込んできた。入口のガラス戸と、休憩室から中庭へ出るガラス戸の二つをぶち破って、枝は回転しながら着地し、そのまま風に押されて、舞台へ上がる階段にひっかかって止まった。同時に凄まじい突風が吹き、割れたガラスの破片が凶器のようにユキたちを襲う。

「キャア!」

 ユキは風に押されて後ろに転倒しながら、銃弾のようなガラスの破片で頬を切った。

 ガラス戸が割れて風の通り道ができたことで、暴風がこれまで以上にまともに吹き付け、雨も斜め上ではなく、真正面から飛んでくるようになった。

 ――とにかく、雨の来ないところに移して、温めなきゃ……。

 ユキは力任せに万三郎を引っ張る。風下に移動しようとしていることで、うまい具合に万三郎の身体はついてきてくれた。

「うーん。はあ、はあ……」

 ユキ自身も先ほどまでずっと、ことだまワールドで働いてエネルギーを消耗したので、相当な疲労を覚えている。雨風と疲労で、フッと意識が遠のきそうになる中、ユキは懸命に万三郎を引っ張って、まずは能舞台の一番奥まで移動させた。

 次に杏児を同じところまで引き下げてきた。杏児の身体にはまだ体温が感じられる。

 ユキは、再び万三郎を引っ張り、「橋掛かり」に引き込んだ。舞台と舞台袖をつなぐこの渡り廊下には、パネルガラスサッシが引かれていて、今は辛うじて雨風は吹きこんで来ていない。

 ――応援を……。

 ユキは上着のポケットからスマホを取り出し、画面を見て、受信感度アイコンに×マークがしっかり表示されているのを認め、電波障害だったことを思い出した。念のため発信を試みたが、やはりだめだった。

「ああ……」

 天を仰ぐユキ。

 ――なら、どうする? どうするの? あ、温めなくちゃ……。

「万三郎! 待ってて」

 半ばパニック状態になりながら、懐中電灯を手に部屋の奥へと進んだ。必死に室内を探し回る。

「ない……ない……。ここも……ここも!」

 懐中電灯を片手に、物入れの扉を片っ端から開けていく。肩で荒く息をしながら、ユキはさらに建物の奥へと進んで行く。

「あー、どこかにあって。お願い……」

 いくつそれらしき扉を開いただろう。

「あっ、あったあ!」

 ユキはついにタオルの束と毛布を見つけた。


十五

 普段、参拝者の休憩所として使われている建物だけに、急病人の介抱や寒がりのお年寄りに貸し出すためのものだろうか、畳まれて何枚も入っていたのがありがたかった。ユキは毛布とタオルを抱えられるだけ抱えて、万三郎と杏児の元へ急いで戻る。途中どこかでまた、「パリン!」とガラス窓の割れる音がしてユキは思わず振り返る。懐中電灯で壁にかかった時計を照らしてみた。まもなく二十四時、気象予報の通り、いよいよ台風の中心付近が伊勢に差し掛かっているのかもしれない。今回のスーパー台風は、瞬間最大風速が百メートル、中心付近の平均風速は七十五メートルと昼間、気象庁が発表していた。もちろん過去に例がない破壊的な強さだ。風は絶えずゴーッと地響きのような音で参集殿を包んでいる。市街地からは川を挟んで相当に離れているこの参集殿の周りでは、バラバラに壊れた木造家屋や自動車などはまず飛んで来ないと思っていたが、実際、人の胴体より太い枝が飛び込んできたのをユキはさっき目の当たりにしている。町では家が吹き飛ばされたり、橋が流されたり、色々な惨事が起こっていることだろう。

――御正殿は無事だろうか。

 年老いた衛士に厳しく制止されたが、あの時、仮に約束を破って正宮までなんとか辿り着けたとしても、最初考えていたような、屋外で座禅を組んでレシプロするなどというのは、今考えれば正気の沙汰ではなかった。今頃は、低体温症か、飛来物に打たれるか、彼方に吹き飛ばされるか、大木の下敷きになるかして、三人とも間違いなく死んでいただろう。

 自分自身も寒さに震えながら、ユキはバスタオルで万三郎の頭と顔を拭いてやり、雨具とスーツの上着を脱がせ、シャツの第三ボタンまで開けて、はだけた胸に新しい乾いたタオルを当ててやった。

 次に、今頃、ことだまワールドで必死に働いているだろう杏児の頭をしっかり拭いてやり、雨具の下の服がほとんど濡れていないことを確かめた。座禅したままの杏児の両肩に手を置くと、ユキは杏児の閉じた目を見つめてつぶやいた。

「杏ちゃん、そっち、頼むわよ」

 手早く自分の雨具とスーツの上着を脱いで髪と顔と首筋を拭い、ブラウスの水気をタオルに吸わせる。寒い。急いで毛布を身体に巻く。そして、室内の参拝者用の長椅子に毛布を二枚がさねで敷いておいて、橋掛かりに横たわる万三郎の身体の前に戻ってしゃがんだ。ワイシャツとズボン姿の万三郎の、腰の辺りと膝の辺りに下から腕を入れて、ユキは力の限り踏ん張って万三郎を持ち上げる。

「んーッ!」

 そして、よろめきながらも数メートル先の即席ベッドまで万三郎を運び、そっと横たわらせた。

「ハア、ハア……」

 激しい疲労感で手を後ろについて喘ぎながら、ユキはわずかに安堵の表情を浮かべる。

――これでたぶん、安全。雨風とガラスは、きっとここまでは飛んでこないわ。

 息が少し整うとユキは再び万三郎の頬に触れる。

――だめだ、冷たい。

 胸に置いたタオルをのけて見ると、かすかに胸が上下している。呼吸はしている。ユキは意を決して万三郎のワイシャツとアンダーシャツ、靴下とズボンを脱がせにかかった。

――だめだよ、死んじゃ……。

 新しいタオルで身体を拭い、毛布を二重、三重に掛けた。熱が逃げないように、毛布を身体の下まで巻き込んだ。

――万三郎、万三郎……。

 まだ冷たい頬をさすってやると、意識のない万三郎の目尻が上下にゆがむ。両耳を両手で包んで体温を移していく。一生懸命やっていると、なぜだか涙が出て来た。ユキの冷えた頬を、雨の滴とは違う温かさが筋を引いて伝わっていく。鼻を啜って、しゃくりあげた。ユキは誰も見ていないのをいいことに、一回だけ、エーンと小さい呻きを発して子供のように泣いた。

……ぽたっ。

 瞼を閉じて絞り出された涙が、今度は万三郎の頬に直接落ちたのにユキは気づかなかった。


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