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(19-06-10)擬人化された英単語が地球を救う。はあ?【小説】ことだまカンパニー 第十九章 前夜(6)~(10)

 杏児はハッとした顔で恵美を見つめ返したが、急にまた恵美の肩を持つ手に力を入れ、恵美を揺らした。

「恵美さん、頼む、教えて下さい。ちづるは僕と一緒に救助されたはずだ」

 杏児は、恵美がまたうつむいて答える様子がないと分かると、恵美の肩から手を離し、三和土(たたき)から靴を脱いで板の間に上がり、さらに畳敷きのラボを奥へとすたすた歩いて行く。覚醒した時、この奥に、さらにいくつものカプセルが安置してあるのを杏児は見ているのだ。あの並びのうち、一つがちづるのカプセルだろうと杏児は読んでいるようだ。

「ダメよ、行かないで!」

 大股でカプセルに歩いて行く杏児に、恵美は必死で追いすがる。

「三浦さん、私は今、このラボの管理権限を古都田社長から一時的に委任されています。勝手なことをしないで。私の責任問題になるから」

 それでも杏児は歩調を緩めない。自分たちが二日前に目覚めた、空のカプセルの並びの向こうに引かれている障子を杏児は躊躇なく開けた。

 次の障子までの間に、三台のカプセルが「稼働」していた。透明アクリルの部分は、電圧がかかっているのか、曇っていて中がうかがい知れない。

 杏児は一番手前のカプセルにすがりつくようにして、声を絞り出す。

「ちづる!」

 そして、カプセルの下に見えるいくつかの配線とスイッチ類を確認し始めた。

「ちづる! 今、目を覚ましてやるからな」

 杏児は明らかに我を忘れていた。そのカプセルの中には自分の恋人がいると思い込んでいて、覚醒させようと今にもスイッチを操作しそうだ。

「三浦さん、やめて!」

 恵美は力任せに杏児をカプセルのもとから引き離した。杏児は思いがけない強い力に引っ張られて部屋の隅によろめいて尻もちをついたほどだ。

 恵美は声を荒らげて言う。

「強制的にカプセルを開けることは、検体を殺すことになる。きちんとした手順を踏まないと、ことだまワールドに行っている意識が、身体を見失って、正しく身体に戻って来られなくなるの」

「だったら!」

 同じように杏児が声を荒げる。

「きちんとした手順で、ちづるを覚醒させてやって下さい!」

 恵美は杏児を睨んだままかぶりを振る。

「権限のある人の命令がなければ、ちづるさんを覚醒させることはできません!」

 言ってから恵美はハッとして思わず杏児から目を逸らし、脇を向いた。

 ――しまった……。

 杏児は恵美を黙って睨み返している。


「恵美さん、一時的であれ、あなたが権限を任されていると、さっき自分で言った。ちづるを、目覚めさせて下さい」

 恵美は一度目を閉じて、それから顔を上げて杏児を見て、悲しげな顔をわずかに左右に振った。

「三浦さん……。小村ちづるさんは今、別の名前で、ことだまワールド内の、KCJ別事業部で働いているわ」

 杏児の目が大きく見開かれる。

「じゃあ、ちづるは生きてるんですね?」

 恵美は目で頷く。

「高速学習は、英語事業部だけで行われていたわけではないの。検体の調達数は年によってばらつきがあるから、いつも全ての事業部が稼働しているわけではないけれど、フランス語、スペイン語、ロシア語、ドイツ語、中国語、韓国語の事業部などには、英語事業部の三浦さんたちのように、ETが存在しています。ただ……」

 杏児が、これまで聞かされていなかった事実に驚愕しているのが表情を見ていてよく分かる。どんな複雑な仕組みの中に自分たちは取りこまれてしまっているのかと唖然としているのだろう。それでも恵美は続ける。

「ただ……高速学習の副作用が出ている人が多くて、今回の国連演説のミッションに耐えうる精神状態ではなかったの。だから、英語ETである三浦さんたちだけがミッション遂行要員として救国官を命じられた」

「恵美さん、ちづるは……ちづるの精神状態は、どうなんですか」

 恵美は一瞬目を伏せて、それから杏児にほんのわずか、微笑んだ。

「おそらく、大きな問題にはならないわ」

 しかし、杏児は納得していない。

「どうして、それが分かるのですか。僕はユキの極度の上がり症が、高速学習の副作用だと聞かされたし、高速化に耐えられなかった同僚二人がもっと重い副作用で脱落したと聞いたんです。ちづるがそうではないと、どうして言えるんですか」

 今度は恵美が少し目を見張った。

「三浦さん、ニューヨーク出張の最中に何があったの?」

 杏児はそれを説明するのももどかしいような表情を一瞬したが、恵美に失礼だと思い直したようで、早口で答えた。

「在ニューヨークの外交官がユキを覚えていたんです。なぜなんだとユキを追求したら、隠し通せなくなったようで、ついに白状したんです。ユキはその後、自殺を図ったんですけどね」

「何ですって! で、ユキちゃんは今どこに?」

 杏児はいったん口を閉じて恵美を見た。それから顔色を伺うように問いかける。

「ユキ『ちゃん』?」

 恵美はごまかしようがなく、開き直った。

「ユキちゃん。福沢由紀さん。彼女は、生きてるの?」

「川に飛び込んだんですが、間一髪で助けました。怪我一つありません。今は羽田空港まで帰って来ています」

「そう……」

「恵美さん、やっぱりユキと同じく、全部知ってたんですね」

「ぜ、全部って」

「大きく分けて三つあります。第一に、僕がちづると冬山で遭難してここへ連れて来られたこと、第二に、ユキが半年前に国連演説を失敗していたこと、第三に、ユキが僕や万三郎の監視役だったこと」

「……」

「まあ、それはいいや。とにかく恵美さん、僕をちづるに、会わせてください」

 恵美は今にも泣き出しそうな顔になって、杏児の胸の辺りに漠然と目を向けていた。必死にこらえていたのに、まばたきをしたために涙が絞り出され、頬を伝いかける。急いで着物の両袖を当てて吸い取ったけれど、そのままついにたまらなくなり、目を袖で覆い隠したまま、「エーッ」と嗚咽を発した。


 その恵美に、杏児はさらに言葉をかける。

「恵美さん、僕と万三郎とユキは、アポフィスの軌道を逸らせるため、これから伊勢の神宮へ飛んで、世界が力を合わせて発する、『グレート・ボンズ』の形成に身を捧げます。でも、自衛隊のヘリの機材繰りが遅れていて、用意ができるまで羽田で待機せざるを得ない。ヘリの出発予定は十一時。その待機時間を縫って、こっそりここへ帰ってきたんです。ちづるがここにいるはずだと思って」

 杏児は恵美の頭越しに障子の手前の三つのカプセルと、障子の向こうにまだあるであろう、さらなるカプセルの方を見ながら言った。

「僕、ちづるを連れて行きます」

 恵美は一度嗚咽を発したのみで、両袖を顔に当てたまま、人形のように静止していたが、不意に顔を上げ、杏児をまっすぐ見てかすかに首を振った。

「KCJ規則違反ですので、お許しできません」

 静かに言い放った恵美に、杏児は怒りの目を向けた。

「じゃあ、実力で連れて行きます」

 杏児はカプセルの前に立っていた恵美を押しのけようとする。恵美はよろめいたが、杏児に抵抗した。

「ダメです!」

 杏児はもう一度、より強い力で恵美を、半ば払い飛ばすかのように押しのけ、文句を言いながら一番手前のカプセルのスイッチを調べ始めた。

「明日、みんな死ぬかもしれないのに、規則違反もへったくれも……」

「止めて! そのカプセルは、ちづるさんじゃないわ!」

 杏児の身体にすがるようにしがみつく恵美を振り返って杏児が怒鳴る。

「じゃあ、どれがちづるなんだ、教えろよ!」

「三浦さん、聞いて。初めてカプセルから覚醒させる時は、急にしてはダメなの。検体の精神に大きなダメージをもたらすの。検体は起きてすぐ異常な破壊行動を取ることが経験上分かってるの」

「何出まかせ言ってる! 僕らが覚醒したのも急だったじゃないか!」

 杏児は恵美を振りほどいて、もうひとつ向こうのカプセルに駆け寄った。

「これか、こっちか」

「それも違うわ! 十二倍速の世界では急かもしれないけれど、こっち側じゃ覚醒まで半日かけてゆっくり調整していたの。お願い。同じ悲劇を繰り返さないで」

「明日アポフィスが地球を破壊するってのに、今日誰が何を破壊するってんですか! 地球破壊よりひどい悲劇って何か教えて欲しいよ! ちづる、今開けてやるから、待ってろよ」

 今にもカプセルを開けようとする杏児を恵美がまた後ろから飛び付いて羽交い絞めにしようとした。だが恵美の手の長さでは結局、杏児の背中側から腰に両手を巡らせて抱きついたような格好にしかならなかった。杏児の背中辺りで恵美が言う。

「急に覚醒させられた人は私の恋人です。彼は私の首を絞めて射殺されました」


 杏児の手が止まった。

「恵美さん、何て、言いました?」

「三年前、強制的に覚醒させられたJES-〇二〇、古島哲也ふるしまてつやは、異常行動を起こして、私の首を絞めたの。私が気を失いかけた時、彼は古都田社長によって射殺された。社長は、私を助けるため、撃つしかなかった」

「それって、ここで……リンガ・ラボで起きたんですか」

 杏児の背中で恵美が頷くのが分かった。

「その後の研究で、機械による最初の覚醒が急激だった場合、十中八九、覚醒に失敗するか、成功しても異常なヒステリー行動が起きることが分かったの」

 杏児は動きを完全に止めて、力なく直立した。

「恵美さん、あなた……」

「私は、ことだまカンパニープロジェクトによって、両親も恋人も失くした。私の両親は生前、ここの検体だった。でも私が二歳の時に、リアル・ワールドで事件に巻き込まれて死んだの。生き残った私も、十八のときに事故でここに運び込まれた。古都田社長は亡き父の親友だった。そのよしみで、社長にはよくして頂いてる。だけど私には肉親も、帰る家もない。リンガ・ラボが私の全てなの」

 恵美は杏児の腰に回した腕を緩める。それに応じて杏児は恵美の方に身体の向きを変えた。恵美は、目を赤くしたまま杏児を見上げて続ける。

「その後、私は、ことだまワールドでは秘書、リアル・ワールドではリンガ・ラボの管理主任として、古都田社長のもとで働いてきた。いろんなことがあったけど、私はKCJに一生、関わり続けるのが天命なのだろうと思い至ってる」

 恵美はそこで言葉を切った。杏児は自分がどうすればいいのか、自分でも分からなくなっているようで、深刻な表情のまま、黙って恵美を見ている。

 恵美は杏児の気持ちを慮って、一瞬、これ以上言葉を発すべきか躊躇して、うつむいた。

 二、三秒の後、恵美は大きく息を吸うと、突然手を伸ばして、杏児のネクタイのゆがみを直し始めた。次に首回りからスーツの襟に沿って手を回して、裾に至ると両方を持ってピンと引っ張った。

「三浦さんは覚えていないでしょうけれど、初日に、ことだまワールドのKCJ社長室で、三浦さんにこうしてあげたわ。社章をつけるときに」

「覚えてますよ」

「え、覚えてるんだ」

 恵美は杏児を見上げて、少しだけ頬を紅潮させ、ニッコリ笑った。杏児は少しうろたえた風に視線を逸らした。

 恵美は言う。

「三浦さん、ちづるさんは、あなたの大事な人なのでしょう?」

「はい、もちろんです」

 恵美は杏児の右手のひらを自分の手に取り、軽く握らせて両手で包み込んだ。

「心配しないで。あなたの大事な人は、ここで私が、守ります」

 そしてその包んだ右手を、恵美の胸元まで持ち上げて、乞うようなまなざしで杏児に言った。

「地球は、あなたが、守って」

 その時。

♪山寺の、和尚さんは、毬は蹴りたし毬はなし――

 杏児の上着の内ポケットのケータイが鳴った。恵美はハッと我に返ったように杏児の手を解放し、その場で後ろを向く。杏児は電話を取った。受話器から漏れ聞こえる高揚したユキの声は、恵美の耳にも届いた。

「杏ちゃん、今どこ? ヘリが予定より早く来たよ。早く帰ってきて」


 内村鑑三郎は、畑仕事の手を止めて上空を見上げた。朝九時の時報とともに、どんより真っ暗な空からポツリポツリと雨が降ってきた。縁側に置かれたラジオが時折りザラザラいうのは、どこかで春雷が電波を邪魔しているのだろう。

 NHKラジオはニュースの第一報に台風情報を流した。

「……超大型で猛烈な台風一号は、四日午前八時五十分現在、奄美大島の東百六十キロの海上にあって、一時間におよそ四十五キロの速さで北北東へ進んでいます。中心の気圧は八百六十五ヘクトパスカル、中心付近の最大風速は七十五メートル、最大瞬間風速は百メートルで、中心から半径二百キロ以内では、風速二十五メートル以上の暴風となっています。また、中心の東側八百キロ以内と西側六百キロ以内では風速十五メートル以上の強い風が吹いています。気象庁によりますと、この時期には異例の台風が、太平洋の南(みなみ)海上で発生、高い海水温と気流の関係で大きく発達して、観測史上最大級の勢力を保ちながら日本を直撃する見込みで、充分な警戒が必要です。先ほど暴風域に入り、雨風ともに強まってきている鹿児島市内、NHK鹿児島放送局の平岩さんと電話がつながっています。平岩さん……」

 ――やれやれ。明日、史上最悪の台風に襲われるかも知れない、地球が消滅するかもしれない、そんな悲惨な状況になっても、この冷静沈着な報道。さすがはNHKだな。

 鑑三郎はひとり、少し皮肉めいた笑いを浮かべながら、移植ごてやら剪定ばさみやらの農具を片付けた。

 ベテルギウスの超新星爆発からこのかた、確かに異常と思えることが多い。先日は富士山をバックに赤いオーロラが輝いた。もちろん、その幻想的な映像はテレビで流され、地球滅亡の噂に油を注ぐ、全国的な騒ぎになった。

 鑑三郎は、山梨県側から見る富士が好きだったが、ここ数日、富士は五合目より上はその姿を見せてくれていない。このまま悪天候が続いて、アポフィス衝突で地球が滅びるまで、もうその勇姿が見られないのかと思うと、数日前まで毎朝会ってきた友人を失うかの如き寂しさを感じた。

 内閣府の事務次官を退官した後も、元部下や関係者がひっきりなしに内村を慕い、意見を求めて東京白金台の自宅へやってきた。あまり来るのでうるさがって、三年前、ついに東京を引き払って、富士を仰ぎ見る山梨県のこの村に独り隠居し、手すさびに庭で土いじりをして暮らすことにしたのだったが、やはり一部の部下たちは鑑三郎と深い交わりを続けた。その中には内閣府情報調査室審議官の石川卓もいた。

 総理官邸に呼び出されてから後は、アポフィス衝突予定日時と回避行動の検討や準備に関する情報は逐一、石川を通じて鑑三郎の耳に入っていた。

 一方、日頃付き合っている近所の人は、鑑三郎のそのような過去を知らない。退職をしおに田舎暮らしを始めた男やもめが三年も土地に居着くと、近所の人は次第に心を許し、時には漬物だの餅だのを差し入れたり、野菜の植え付けや、地元の味噌の作り方の指南をしたりと、よく面倒を見てくれた。

 鑑三郎は人当たりが良いので村人から好かれてはいたが、ただ――時々、そこに誰か人がいるかのように独り言を言う――と、その風変りな素行を噂されたりもした。

 近所の親父が軽トラックを減速させて、自給用の畑にたたずむ鑑三郎に声をかけて行く。

「おーい内村さん、野良仕事は今日はだめずら。おしめいなって。こりゃあ、本格的に降るずら。晩方ばんかたから明日にも台風が来るらしいから、雨戸しっかりかためてくんなって。行くど。ふんじゃあ」

「ほだなあ。おおきんよう」

 鑑三郎は手を上げて親父の軽トラックを見送った。これまで親切にしてくれたことに心から感謝する。

「あら、降ってきましたね」

 サッシを明け放った縁側に、奥から黄八丈を着た若い女が出てきて、風で降り込む雨粒が縁板をまだらに濡らすのを見て天を仰いだ。ラジオはまだ各地の台風情報を報じている。ポツリポツリの雨粒を時折風が吹き流す。遠雷が聞こえた。

「いよいよ、明日か」

 そう言いながら沓脱石に履物を揃えて縁側に上がり込んだ鑑三郎は、首に掛けた手ぬぐいで濡れた顏を拭きつつ、庭を振り返る。

 平地より少し気温が低いこの山裾の庭でも、ソメイヨシノの蕾がいっぱいに膨らんでいた。

「アポフィスも、花が開ききるまで待っていてくれたらいいものをなあ、志乃しの

「本当に、ねえ」

 志乃と呼びかけられた女は鑑三郎に寄り添うように立って桜を眺めた。


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