(19-01-05)擬人化された英単語が地球を救う。はあ?【小説】ことだまカンパニー 第十九章 前夜(1)~(5)

 雨と相当な強風の中、日本政府専用機は辛うじてJFケネディー空港を離陸し、上昇を始めていた。

 揺れる機内の後ろの方のセクションは、帰国を許された在米邦人高官とその家族で満員だった。

 そのセクションとはカーテンを隔てて、こちら側、随行員席のシートに、救国官たちは席を得ていた。横並びで、窓側から杏児、万三郎、そして通路を挟んでユキだ。まだ意識のないユキが横たわる席は、特例で離陸時からフルフラットに倒されていた。点滴を施され、体温や血圧や脈拍がモニターされている。

 三人の前数列と後ろ数列は、ニューヨークを発った時点ではまだ空席となっている。

 上空に至り、多少揺れが収まったところで、シートベルトサインが消えた。

 ブリーフケースを提げて前のセクションから歩いてきた石川の指示で、濡れた服を着替えるために万三郎が席を立った。その万三郎の席に石川は一時的に座り、ブリーフケースから書類を取り出しながら、コール・ボタンを押して客室乗務員を呼んだ。

 間もなく、自衛官でもあり、かつ医師免許も持っているという女性乗務員がやって来て、フルフラットシートに横たわっているユキのモニターの数値をチェックした。そして書類から目を離した石川審議官に落ち着いた声で報告した。

「バイタルが安定しているので、しばらくしたら目が覚めると思います」

「そうですか、ありがとうございます」

 石川は頷いてから乗務員に尋ねた。

「ところで、この飛行機はロスに立ち寄るのですよね。羽田にはいつ着きますか」

「はい。ロサンゼルスでは数十名の邦人高官を収容するため、三十分から一時間トランジットします。その先、日本の近くにも強い台風が近づいているので、影響がどのくらい出るのかまだ分かりませんが、日本時間で四月三日の朝六時頃に羽田空港に到着することを目指しています」

「なるほど、ありがとうございます」

 石川は腕時計をちらりと見て、それから乗務員に礼を言った。乗務員が頷いて石川のもとを離れると、石川の横に座っていた杏児が石川の耳元で囁いた。

「石川さん、僕は……僕はいったい、どちらの世界の住人なんでしょうか」

 石川は杏児の方を見もせずに、ブリーフケースを取り出すと、ふたを開けて今まで目を通していた書類を仕舞い込んだ。

「喜ばしいことじゃないか、お前の機転の利いたレシプロのおかげで、こいつらの着水衝撃を緩和できたんだろう? 奇跡的に二人の命を助けた。お前の瞬間レシプロ能力の賜物だ」

「自分でも驚きました。石川さん、だからこそ、怖いんです。僕は……何者なんでしょうか」

 石川はもう一枚の書類を取り出して腕時計と見比べ始めた。

「三浦、今お前の哲学問答に付き合っている暇はない」

「ユキから全部、聞きました」

 杏児がそう言うと、石川はギロリと視線を杏児に向けた。

「古都田社長がユキに監視を命じた、ということは石川さんの意向を受けてということですよね」

「……知らん」

「高速学習で何人かの人が精神異常をきたしたと聞いています。何の権利があって危険な人体実験をするのですか」

「……」

「小村、ちづるって名前に聞き覚えがあるでしょう?」

「……」

「今、何て名前でリンガ・ラボのカプセルに収容されているのですか。あの子におかしな人体実験したら、僕はあなたを許さ……」

 石川はいきなり、書類を放り出した右手で杏児の襟首をガッとつかんだ。びしょ濡れのまま搭乗して、さっき機内で着替えたばかりのシャツの第二ボタンが吹き飛んだ。

「若造、口のききかたに気をつけろ」


 石川は杏児を睨みつけ、声を押し殺して言う。

「お前など本来、まだ山でカチカチに凍っているはずだったんだ。国が動いて、お前が生前、保険に加入していたことにしておいた。すべての費用が保険から出るとお前の親には警察から話が行っている。だがお前が望むなら、これまで国庫から出ている、お前の救出と生命維持に関わるすべての費用――まあ、一億は下らんだろうがな――を、あらためて親に請求した上で、お前ひとり冬山に戻して、永遠の眠りにつかせてやってもいいんだぞ」

 杏児は目を見開いて石川を見つめた。首を絞められる形になっているので、声が出せない。

「国家権力を甘く見るな。機密を不用意に口にすると、ある日突然、存在自体がなくなるぞ。これは警告だ。分かったか」

 押し殺した声で「分かったか」と言われても、襟首をねじ上げた手が顎を下から突き上げているので、頷くことも声を出すこともできず、杏児は石川の手に自分の手を重ねて、外してくれとただ目で懇願するしかなかった。

 二、三秒の後、石川は手を離し、念押しするように絡めていた視線をようやく杏児から外して、床に飛んだ書類を拾った。

 そこへ前の通路から万三郎が蒼白な顔で歩いてきて、石川の前で立ち止まった。

「石川さん、着替えてきました」

「ああ」

 石川は拾った書類をブリーフケースに戻して口金を閉めて立ち上がる。

「福沢は、大丈夫だそうだ。俺は戻る。前のセクションで統合幕僚副長と打ち合わせを済ませてから休む。しばらくは起きているから何かあったら報告に来い」

「はい、分かりました」

「ああ、それから、伊勢行きのヘリに羽田からすぐ乗り換えて飛べるよう、副長に念押ししておいてやる」

「ありがとうございます、石川さん」

 石川は万三郎ではなく、杏児にチラリと目をやり、さらにまだ目が覚めないユキを一瞬見やってから通路を前へと歩いて行った。

 石川が座っていた席に、万三郎が座った。

 石川と入れ違いに先ほどの客室乗務員が万三郎に毛布を持ってきた。

「あ、すぐに持って来ていただいてすみません。もう一枚、それもお借りできますか」

「もちろんです。二枚で大丈夫ですか」

「足りなければまた、お願いすると思います」

「かしこまりました。いつでも」

 そう言って客室乗務員の女性は万三郎に毛布を手渡して、ユキが先ほどと変わりないのを確かめてから歩き去った。

 杏児は、飛んだシャツのボタンの所在を求めて視線を巡らせたが、結局見つからず、チッと舌打ちをして、ひじ掛けを叩き、「クソッ」と吐き捨てた。

「杏児、どうした」

「いや、何でもない」

「そうか……で、ユキは」

 万三郎はユキを振り返った。杏児が答える。

「石川さんの言った通りだ。怪我も障害もない。もうすぐ眼が覚めるだろうって。おぼれなくて済んだのは、お前がすぐ水の中から引き上げたからだろう」

「そうか……よかった」

 万三郎はしばらくユキの寝顔を見てから、杏児に向き直って、その手を取った。

「杏児、改めて言う。ありがとう。お前が助けてくれなかったら、俺もユキも死んでいたかもしれないし、生きていても飛行機に間に合わなかった」

 杏児は万三郎を見返して言う。

「万三郎、俺はユキを赦すよ」


 万三郎は目を丸くした。杏児は万三郎越しに、まだ目覚めないユキを見やった。

「こいつ、本当に死ぬ気で身投げしやがった。考えてみればさ、ユキも可哀そうなんだよな……。高速学習の後遺症と、心の傷を抱えたまま、もう一回、同じ高速学習環境に押し込められて……。しかも、不本意な監視の任務まで命じられて、俺たちと一緒の間、ずっと罪悪感にさいなまれていたんだ、きっと。一言も相談できずにさ」

「そう……だな」

 万三郎も杏児につられてユキを振り返った。杏児が続ける。

「こいつ、タッチ・ハート作戦でお前の演説中も、必死で働いてたぜ。半年前の贖罪のように、相当なことだまのエネルギーをワーズたちに載せて送り出してた。よく気力と体力が持ったもんだ」

「そうか……」

「あの時、俺は裏切られた怒りで、ユキを認めようとしなかったけど、今考えると、死ぬ気で働くって、ああいうことを言うんだなって、思う」

「……」

 万三郎は、ユキの苦悩に思いを馳せていた。往きの飛行機の中で、「手を握っていて」と万三郎に言った時も、自分だけが仲間を監視するミッションを担っていることや、半年前に致命的な失敗をした場所を再び訪れなければならないことを決して口にできない代わりに、彼女が発していた悲鳴だったのではないだろうか。

 ユキは寝息ひとつ立てずに眠っている。

「万三郎……」

 杏児の呼びかけに万三郎は振り返る。

「今度は三人、一緒だ。次は実際に【hope】をアポフィスに向けて送り出す『偉大なる絆グレート・ボンズ作戦』だな。ユキに負けないように伊勢神宮で一丁、やらかそうぜ」

「ああ」

 二人は改めて目の前でがっしりと右手を組み合った。

 手を組んだまま、杏児が眉をひそめた。

「万三郎、お前……いやに手が熱いぞ。大丈夫か」

 万三郎は笑いながら手を解き、その手でボタンを押して自分のシートを倒し、仰向けに寝転がって、供え付けのものと併せて三枚の毛布を重ねて拡げた。

「決戦は明日だ。お互い、体力を取り戻そうぜ」

 杏児は訝しんだが、万三郎が話をはぐらかしたのを、あえて問いただそうとはしなかった。杏児もシートを倒して横になり、供え付けの毛布を被った。

 毛布の陰から万三郎が言う。

「杏児、一瞬でことだまワールドへ飛べる瞬時レシプロの技術、いつ習得したんだ?」

 杏児も毛布の陰から答える。

「あの時が初めてだ。直感的に、何とかしなきゃって思いがよぎって、そしたら僕の手が突然、ぐんぐん伸びて、スローモーションのように、落ちていくお前たちに届く感覚に襲われた」

「カーチェイスの最中、古都田社長と新渡戸部長がやっていた技と同じじゃないのか」

「そうかもしれない。恵美さんが言ってたように、確かに、ほんの一瞬ですごい体力と精神力を使った。年配の人には生死に関わるかも。僕でさえ、しばらくあの場に座り込んで放心状態になったよ」

「杏児、お前、レシプロケーターの才能、あるんじゃない? 古都田社長の後継者になれるよ」

「やめてくれ。僕は望んでETになった訳じゃないし、KCJの社長になんか……」

 そこまで言って杏児が話すのを止めたのは、万三郎の寝息が耳に入って来たからだった。

 万三郎は杏児が言葉を止めたところまで認識したものの、もう会話を続けることができなかった。

 ――万三郎のやつ、もう、落ちたのか。

 杏児がそう思うのと時を同じくして、機内の照明が暗くなった。

 杏児は毛布の中で寝返りを打ち、何気なく顔を出してみてぎょっとした。窓越しに、ベテルギウスが赤い妖光を放っていたからだ。杏児は慌てて目をそむけ、毛布を引き上げる。

 ――アポフィスが……今、この時も、地球に向かっている……。

 にわかに杏児の腹にアドレナリンが分泌される感覚が襲ってきた。

 ――そうだ。今はまだ、状況は何も変わっていない。石川さんの話が正しければ、おおよそ三十六時間後、アポフィスは、確実に地球に衝突するんだ。

 毛布の中で目を閉じた杏児の瞼の裏に、ちづるの顔が浮かんだ。


 万三郎を乗せた政府専用機は、夜と共に飛んでいた。だが機内の照明がスッと明るくなり、機長アナウンスが流れ始めた。

「おはようございます。ただいま、日本時間で午前五時三十分です。当機はあと三十分ほどで、羽田空港に到着します。乗客の皆さまにお知らせします。日本政府は、日本時間の四日午前零時に、国家非常事態を宣言しました。羽田空港は現在、厳戒態勢を取っており、空港に接続する全ての公共交通機関は現在休止しています。乗客の皆様は、当機がターミナルに到着しましたら、待機している自衛官の誘導に従ってください」

 万三郎の意識は深みから浮上してくる。機内が次第にざわめき始める。そのざわめきを聞きながら万三郎は、刻々と覚醒する現在意識の底を何度もなぞるように、考えを巡らせる。

 人々は政府高官の家族ゆえに、信ぴょう性の高い一定の情報は聞かされているのかも知れない。問題は、政府が一般国民に対して小惑星衝突の噂を事実だと公式に認めた上で非常事態を宣言したのかどうかである。だが、政府専用機であるこの飛行機の着陸こそ認めたものの、パニックや不測の事態を警戒して空港を閉鎖するような厳戒体制を決断するくらいだ。すでに広く国民に知らしめてしまったのかも知れない。

 救国官の一行がニューヨークに飛ぶために空港に向かう道ですらテロリストに襲われたのだ。あの時はまだ滅亡の危機はうわさでしかなかった。政府が公式に認めたのなら、パニックによって、想像を絶するどんな事態が起こっても不思議ではない。

 万三郎は、ぐったりと重い身体を実感しながらも、今、日本がどうなっているのか、人々がどんな精神状態にあるのか不安いっぱいになって、パチリと目を開けた。

 人々の心が荒れたら、世界に協力を呼びかけた、グレート・ボンズ作戦に、肝心の日本が貢献できなくなる。ことだまの国として、世界の危機にあっても日本人の心がひとつになれないなどという事態は避けたい。

 見ると、ユキも同じように目を開けていた。反対側では杏児もこっちを見ている。

「ユキ、体調はどう?」

「うん、大丈夫。幽霊じゃないのね」

 万三郎は苦笑した。

「杏児が助けてくれたんだ」

 ユキは、頭を上げて万三郎越しに杏児に礼を言った。

「そうなんだ。杏ちゃん、ありがとう」

 杏児が訊く。

「ユキ、覚えてるのか」

 ユキは頷いてすぐかぶりを振った。

「うん、う、ううん。飛び降りたとこまで」

 杏児も苦笑した。

「ま、いいや」

 その時、前方から石川が歩いてきた。

「おはようございます」

 石川の表情は硬い……というか、寝ていないのではないかと思われた。挨拶をしたユキを見て、ほんの一瞬、表情を緩めたが、即座に、知らない人なら気安く声を掛けられないほど厳しい顔に戻った。

「福沢、気がついたか。大丈夫か」

「はい、ご迷惑をおかけしました」

 その厳しい表情のままで石川は万三郎と杏児の方を向く。

「航空自衛隊のヘリが手配できそうだ。だが、別の所で救助作業を遂行中らしく、羽田への到着が遅れるそうだ」

「どのくらい遅れそうなのですか」

「分からん、作戦が片付き次第ということだ。だが午前中に来るだろう。それまで空港で身体を休めておけ」

「あの……」

 石川は精悍ながら、疲労で黒ずんだ顔を万三郎に向けた。

「石川さんも、伊勢神宮へ一緒に行ってくださるのですか」

 石川は沈黙した。それからひとつため息をついて、万三郎とユキの間の通路にしゃがみ込んだ。

「ひと口に国を守るといっても、実にいろんなものを守らなくちゃならんな」

 前後の客席に座っている他人をはばかって、声をひそめた石川の表情がわずかに緩んだ。

「お前たちは、自分の意志ではなく救国官を任ぜられたが、自分の意志で伊勢行きを選んだ。それなら伊勢で、国を救うために、ベストを尽くせ。俺も国家公務員だ。俺をいちばん必要としている場所で、国のために働く」

「石川さんは、内閣府の役人ですものね」

 石川は頷いた。

「俺は、総理官邸に呼び出されている。非常事態宣言発令中はずっと、大泉総理のそばに詰めることになるだろう」

「では、別行動、ですね」

 石川は頷く代わりに続けた。

「中浜、三浦、福沢。お前たち三人とも、今回はよくやった。だが、その偉大な功績が意味を持つのも、明日を乗り越えてこそだ。俺も東京でベストを尽くす。お前たちも伊勢でベストを尽くせ。共にこの国を守ろう」

 石川は低い声でそう言うと、杏児、万三郎、ユキとそれぞれ肩をポンと叩いた。

「必ず、また会おう」


 ――古島さん、しっかりして! ダメだよ、古島さん、死んじゃダメ! もう、私を一人にしないで、お願い……。

「古島……さん……」

 古島を助け起こしながら目が覚めると、恵美はちゃぶ台に突っ伏して寝ていた。黄八丈の着物の袖が涙でしとどに濡れていた。

 恵美は頭を起こして振り返り、時計を見る。大きなのっぽの古時計は朝七時を指していた。この振り子時計は夜には時報を打たないように設定している。うっかり寝ている間に、日付けが変わって朝になってしまったようだ。

 部屋の照明を少し暗くしたことで、ついあんな夢を見たのかもしれないと思いながら恵美は立ち上がり、着物の乱れをしゃんと直してから、壁に懸けられた小さな鏡の前に立った。眠っている間に泣きはらした顔には、普段のりんとした涼やかさがない。

「やだ、何て顔してんだろ、私……」

 恵美は一瞬苦笑いを浮かべ、ハンカチを軽く当てて、目もとに残った涙を吸い取らせた。

 次に、その鏡の隣り、柱に掛かった日めくりカレンダーをしばらく見ていた恵美は、やにわに一枚をめくり破り、さらにもう一枚をめくって、現れた「五」という数字をわざと口に出して言ってみる。

「四月五日、衝突記念日」

 それから、その「五」をちらりとめくってみる。「六」があった。

「あるじゃない……」

 当たり前のことを恵美がつぶやいた時、「カアー」とカラスが鳴く音がした。

 ――えッ、誰?

 恵美が驚いて、台所への入口にかかる縄のれんの横にあるカラーモニターに警戒の目を向ける。エレベーターの上方からと前後の隠しカメラから撮影された侵入者の姿は、三浦杏児のそれだ。恵美は目を見開き、手で口元を隠して鋭く息を吸った。

「古……三浦さん!」

 恵美は土間の先にある扉に慌てて駆け寄って行った。チン、と音がしてエレベーターの扉が開く。乗っていたのはやはり杏児だ。

「うわッ」

 扉が開くと目の前に恵美が迎えに出ていたので、杏児は少なからず驚いた。

「お、お帰りなさい、三浦さん」

 恵美は嗚咽が込み上げてくるのを必死でこらえながら、軽く腰を折ってお辞儀をした。

「え、恵美さん、ただいま」

 お辞儀から直りながら杏児を見上げて、古島に生き写しのような杏児の目もとを見ると、恵美は自分の目がみるみる潤むのをもはや抑えることができなかった。

「無事に帰国したのね。首尾はどうだった? 撃たれた足は? ああ……とにかく帰ってきてくれて、すごく、嬉しい」

 抱きつきたい衝動に任せ、やっこのように両腕を広げたものの、その手のやり場に困り、手持ち無沙汰に静止させた恵美は、仕方なく自分の目元の涙を隠すのに袖を当てた。

 その恵美の両肩を杏児がいきなりがっしりつかんだので、恵美はビクリと身体をこわばらせた。

「恵美さん、訊きたいことがあるんです」

 恵美はおずおずと杏児を見上げる。帰って来るなり、ろくに事情も話さずに、勢いづいた杏児の性急さが恵美に妖しい胸騒ぎを覚えさせた。

「な……何」

 杏児は華奢な恵美の肩をつかんだまま言い聞かせるようにわずかに前後に揺すった。

「恵美さん、ちづるは、死んだのですか? それともこのラボにいるのですか」

 恵美の肩を揺らしながらそんな問いを発した杏児を、恵美はうらめしそうに見上げた。そこへ杏児がさらに訊くのだ。

「小村、小村ちづる。僕と一緒に発見されたはずだ。恵美さん、あなたは全て知っているのでしょう?」

 杏児のその一言を聞いて恵美は悟った。杏児は、ニューヨークへの往復旅程のどこかで、何らかの事情で、自分がどうしてここへ運ばれてきたのかを知り得たのだろう。

 幾度となく上半身を揺すぶられる恵美は、今度はうつむいたまましばらく無言で考えていたが、口を真一文字に結ぶと、杏児の目をしっかり見据えて答えた。

「先日も言いましたが、小村ちづる、などという人は、リンガ・ラボの検体群には存在していません」



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