もぐり

 私は某私立大学の通信教育部で非常勤講師の仕事をしている。非常勤講師というのは、要するに、アルバイト先生である。
 もともとは、通信教育部の芸術学コースというところで働いていたのだが、この春からは文芸コースでも仕事をすることになった。去年の終わりだったか今年のはじめに、同コース教授のK先生(現在はすでに退任)からお声がけいただいたのがきっかけだった。
 正式に引き受ける前に、K先生と面会して、仕事の内容を説明してもらうことになった。ちょうど、ジョン・ファンテ『犬と負け犬』が刊行されたころだったので、名刺代わりに持参した。ああ、これはご丁寧に、とK先生は言っていた。私の訳書は一冊も読んだことがないようだった。
 そして、二月か三月ごろ、K先生の後任に当たるA先生と引き合わせていただくために、私はふたたび大学に出向いた。今度も『犬と負け犬』を持っていった。拙訳書を受けとったA先生は、これはどうもご丁寧に、と言っていた。私の訳書は一冊も読んだことがないようだった。
 栗原さんはどんな仕事をされているんですか、と訊かれたので、最近はイタリアの漫画を訳していました、と伝えた。すると、A先生とK先生がこんな会話をはじめた。
「漫画の翻訳といえば、最近、F井光さんがとても面白い作品を訳していてね」
「ああ、F井さん。すごい活躍されてますよね」
「まだお若いのにね。話題作を次々に訳されて」
「翻訳の賞もとってますよね」
「うんぬんかんぬん」
「どうたらこうたら」
 この連中、F井光のことはよう知っとるのに、栗原俊秀(←私の名前)の仕事を知らんとか、もぐりやな、と私は思った。

                               (了)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?