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小説「フルムーンハウスの今夜のごはん」【第1章】ペルセウスの空耳

第1章 ペルセウスの空耳


1

 冷蔵庫から缶ビールを取り出した耕平は、三十年連れ添った妻、潤子の背中を眺めている。ソファに横たわる潤子の斜め前には、フローリングに敷いたラグの上で、娘の真由子が寝そべっている。トドが二頭だな。と心の中で呟きながら、耕平は一口目のビールを喉に流し込む。
 二頭のトドはつまらないヴァラエティ番組を観ながら、同じところで同じ声を出して笑う。そっくりの母娘だ。あんなに小さくて可憐だった娘が、細い首にくびれた胴の華奢な女であった妻が、どうしてこんなふうになってしまったんだろうと、耕平は月日の流れの残酷さを想う。

 望月耕平は、主に電設資材を扱う会社に勤めるサラリーマンだ。勤続三十三年、とりたてて何か会社に大きく貢献したような実績もないが周りから疎まれるほどでもない、平凡を絵に描いたような56歳の男である。ひとつ年下の潤子とは、友人の紹介で知り合い、26の年に結婚をした。二年後には長男の涼太が生まれ、さらにその三年後には長女の真由子が生まれた。
 潤子の両親はそこそこの資産家で、四階建ての賃貸マンションを、一人娘の潤子を含めた家族三人の名義で共同所有している。そのため潤子も定期的に家賃収入を得ているらしかった。耕平が今の一戸建ての住まいを購入する際にも、潤子の親から結構な額の頭金を用意してもらったため、彼等には今でも頭の上がらない思いだ。
 「都内に戸建て持つなんて、オマエすごいな」
 同郷の旧友たちから驚きと羨望の眼差しを向けられるたび、耕平は勘違いの優越感に浸ったものだ。俺は上手くやっている。俺の人生はまんざらでもない。しかし他力本願な耕平の自己肯定感が、それほど長くキープされることはなかった。

 望月家が歪だと耕平が気づいたのは、長女の真由子が高校を卒業した頃だ。大学受験に失敗し、専門学校に行くの行かないのと騒ぎ出した真由子は、結局何もしないまま半分家に引きこもるようになった。いわゆるニートである。
 そして真由子の不調に合わせるように、潤子は暇つぶし程度(少なくとも耕平の眼にはそう映っていた)で続けていたパートをやめ、専業主婦となった。
 当時の潤子は「身体がだるいのよ、更年期なの」が口癖で、気づけばソファに横たわり、つけっぱなしのテレビを空洞のような眼で見つめていることが増えた。サイドテーブルの上には菓子の包み紙などが散らばっていた。いつの間にかそこに真由子が加わり、気づけばトドが二頭、常にリビングを占領するようになっていたのだ。
 それに引きかえ長男の涼太は、耕平の自慢の息子である。涼太はW大学を卒業後、M商事に入社した。幼少期から可愛く素直で賢い子供であった。中高時代はサッカー部で汗を流し、友達も多く、勉強にも前向きだった。俺の血かな、と耕平は自分の潜在能力を過信してみたりもしたが、傍から見れば涼太は明らかに、耕平よりもすべての面において勝っていた。
 当然ながら潤子も、そんな涼太を溺愛していた。真由子の件で調子を崩しかけた潤子は、その翌年に就職の決まった涼太が巣立っていったことをきっかけに、ますます怠惰な生活を送るようになった。息子がいなくなったら料理をするのも損とばかりに、食卓には冷凍食品やスーパーで買った総菜が多く並ぶようになった。
 「更年期障害は治療できるっていうじゃないか。いっぺん医者に行ってみたらどうだ」
 耕平は一度、潤子にそう言ってみたことがある。潤子は一瞬、濁った眼で耕平を見上げ、「他人のことだと思って……」と小さく呟き、耕平に背を向けた。

 真由子はそんな母親と一体感を強めるばかりだった。母娘は互いの傷を、いや傷というほどのものでもない、軽い打ち身のようなものを、擦り合い舐め合って、ブヨブヨのカプセルの中に閉じこもってしまったように見えた。
 「真由子、家にいるばっかりだと彼氏もできないぞ。バイトでもしてみたらどうだ?」
 自分では気の利いた冗談まじりのアドバイスをしたつもりの耕平は、真由子から殺気立った視線を向けられ、心底ゾッとした。
 だからといって、例えばどこかの機関に自ら率先して相談に出向くだとか、家族問題を扱うカウンセラーを探してみるだとか、耕平にはそこまでの熱意も行動力もない。むしろ腫れ物には触らないでおこうと、家庭での耕平は年々無口になる一方だった。

 望月夫妻がセックスレスになってから、すでに六年の歳月が流れた。
 精力と性欲はイコールではない。精力にはめっきり自信がなくなった耕平だが、決して性欲そのものを失ったわけではない。俺はこのまま男として終わるのか……。腹立たしいようなやりきれないような思いで、耕平の下腹は疼くのだった。
 しかしながら身近な女性と不倫関係を結ぶほどの度胸もなければ、それ以前にそんな器ではないことを、耕平自身も理解をしている。勝手に女が寄ってくるような色気のある男とは、圧倒的に何かが違うのだ。


2

 「おい、マジかそれ」
 昼飯から戻った耕平の眼は、その日一番の輝きを放っている。彼女いない歴五十二年と噂されている、超ダサくて有名な経理部の江藤信夫が、婚活サイトで出会った女と結婚するという噂が飛び込んできたのだ。
 「大丈夫なのか、それ。変な女に騙されちゃってるんじゃないの」
 耕平は薄笑いを浮かべながら、同じく婚活中だという30代の鈴木に言う。
「いや、僕さっき江藤さんにスマホの写真見せてもらったんですよ。おとなしそうな、いい感じの女性でしたよ。38っていってたかな」
「え、一まわり以上も年下じゃない。なんだよ、やるなぁ、江藤さん」
「江藤さん、相当な資産持ってるって噂ですしね」
 鈴木は耕平に小さく耳打ちする。
「まあ、そうだろうねぇ。あの歳までずっと一人だったら、かなりの額貯めこんでるだろうな。しかし今どきの婚活サイトってどうなの。ヤバくないの」
「何言ってるんですか、望月さん。僕だってやってますよ、マッチングアプリ。今どき出会い求めてる男女だったら、かなりの人がやってると思いますよ」
「え~、マジかそれ」
 耕平は本日二度目の「マジかそれ」を発しながら、わずかに鼻の穴を膨らませていた。

 日常的に勉強をするような向上心のある人間でもないのに、耕平は自宅に五畳ほどの自室を持っていた。自宅を購入した際に、ちゃっかりと書斎スペースとして確保した部屋だった。そこに形ばかりの机と椅子、ベストセラーのミステリー小説や時代小説、気まぐれな自己啓発本などが申し訳程度に並んだ本棚が置かれていた。
 鼾がうるさくて安眠できないと、潤子が文句を言い出した五年前に夫婦別室を決め、耕平は自分のベッドを書斎に移動した。今さら妻と寝室でアレコレすることもなかろうと、早々に夫婦関係を諦めたのだった。そして五畳の空間が今、狭いながらも極楽のような耕平の城だ。

 「今どき出会いを求めてる男女だったら全員やってるマッチングアプリ」と、都合良くアレンジして記憶した鈴木の言葉を、耕平は思い返していた。
「よし、どんなもんかいっぺん覗いてみるか。これもひとつの社会勉強だ」
 耕平は言い訳がましく独り言ちて、自室のパソコンの電源を入れる。
 かつての「出会い系サイト」というものとは、まったく別物らしい様相に耕平は驚いた。数えきれないほどのサイトがあり、それぞれにスマホのアプリが存在するようだ。なるほどこれが鈴木の言っていた「マッチングアプリ」なのかと、合点した耕平は鼻息を漏らす。
 仕事ではついぞ見せたことのない集中力で、耕平は一気に情報を集めた。どのマッチングサイトにも、驚くばかりの人数が登録をしている。下は10代から上は70代80代に至るまでの男女が、恋をしたい結ばれたいと自己アピールをしている。
 自分の知らない間に世の中はこんなふうになっていたのかと、耕平は何やら自分が長いこと損をしてきたような錯覚に陥る。さらには既婚者の男が独身と偽って、遊び相手を探すケースも多いと知る。
「まったく悪い奴もいるんだなぁ。しかし引っ掛かるほうも馬鹿だよな」
 自室での耕平はことさら独り言が増えるが、それは大抵機嫌の良い時だ。
 気づけば三時間ほどが経過していた。パソコンの電源を落とした耕平の顔は、達成感と期待感、それと一抹の罪悪感とですっかり上気していた。耕平は今夜、初めての大きな冒険をしたのだ。

ペルセウス 52歳  東京都在住 離婚歴あり 子供なし   
会社員 年収900万円以上  身長172センチ 体重65キロ 
趣味はスポーツ観戦 映画鑑賞 読書 ドライブ
学生の頃はサッカー部に在籍 ポジションはフォワード
体力にはまだまだ自信があります! 
まずは気軽にメールでお話ししませんか?

 まずはざっと、軽くこんな感じでキメてみた。あらゆる面でお手頃な「ララ・マッチ」に、とりあえずはひと月だけ、ほんのお遊びだよと自分に言い聞かせて会員登録した。年齢、年収、諸々サバ読んだ。趣味も適当、サッカー部も嘘だ。
 ハンドルネームは「ペルセウス」。「ヤマちゃん」だの「風来坊」だの「ぽん太」だの、絶望的なセンスの名前が多い中で、我ながらなんてイカしたネーミングだと耕平は悦に入る。プロフィール画像がないと反応が薄いと知ったから、思いきって顔写真もアップした。数年前の笑顔のスナップ写真をあえて顔半分トリミングしてみたら、思いのほか洒落た感じになった。
 誰かにバレたらどうしよう。布団の中で耕平の胸はざわつく。いや、そんなはずはない。年齢だって違うし、あの写真じゃどう見たって俺と判るはずがない。そもそも会員登録をしなければ顔が見られないシステムのサイトをチョイスしたんだからと、耕平は必死に自分に言い聞かせる。

 翌日から耕平は、暇を見つけてはララ・マッチにログインした。プロフィールに足跡が増えるだけで、耕平の胸はわずかに高鳴る。20代から40代の女性を、片端から検索しては足跡をつけた。好みのタイプの女は年齢問わずお気に入り登録し、「いいね」を送った。
 耕平の一番のお気に入りは、26歳のミュウちゃんだ。横浜市在住、趣味は料理と乗馬。いかにも修正したような自撮り画像ではなく、乗馬服姿のスナップ写真の笑顔が群を抜いている。
 ミュウちゃんは真剣に歳相応のパートナーを探している様子だったので、「いいね」を送った耕平は当然のようにスルーされ、足跡がつくこともなかった。
 42歳のカモミールさん、46歳のカリンさんあたりが、耕平の本命だった。この二人に思いきってメッセージを送ってみようか、耕平は悩み続けた。馬鹿だな、俺も。こんなの単なる暇つぶしだぜ? 下手に自分から動いて、二人ともその気にさせちゃったらどうするの。と意味の分からない自惚れと生来の臆病さで、耕平は向こうから獲物がやってくるのを静かに待つことにした。

 それから三日後だ。耕平のスマホに「カリンさんからメッセージが届きました」というララ・マッチからの着信があった。思わず「おっ!」という声を上げた耕平に、「望月さん、どうかしました?」と隣の席の鈴木が訊いた。


3

 土曜の昼間から、耕平は落ち着かない。今夜は46歳バツイチのカリンさんと新宿で逢う約束をしているのだ。まさかこんなことになるとは……と耕平は思うが、まさかを期待していなければ、そもそも登録などしないだろう。
 数日間メッセージのやりとりをした後、カリンさんからデートに誘われた。据え膳喰わぬは男の恥。とりあえず逢ってみるくらいいいだろうが、本気になられたら困る。いやしかし、もしもこちらが本気になってしまうようなことになったら……、その時はその時だ。耕平は妄想の中で、潔く潤子に離婚届を突きつける自分を思い描いてみたりもした。

 「今日、どこ行くんだったっけ」
 潤子が珍しく耕平に訊ねる。妙に顔色が悪い。
「昨日言っただろ。ほら、高校の時の同窓会だよ。大宮で終電逃しちゃったら帰りそびれるかもなぁ。そしたら適当にやるから気にしないでいいよ」
 耕平は万一の情事に淡い期待などして、念のため予防線を張っておいた。密かに一番新しめのトランクスを身に着けている。
 そろそろ出かけるかと腕時計を確認した時だ。
「お母さん! ちょっと、大丈夫?」
 真由子が大声を出している。見ると潤子がリビングの床で、脇腹を押さえて苦痛に顔を歪めている。
「おい、どうした。腹が痛いのか」
 潤子は身体を折り曲げくの字になっている。巨大な海老のようだと耕平は一瞬思うが、潤子の額には脂汗が滲んでいる。震えながら痛みに耐えている様子は只事ではなさそうだ。こちらの問いかけにも応えることができない。
 「お母さん、大丈夫? どうしよう、お母さんが死んじゃう! どうしよう、お父さんっ!」
 真由子はすっかり取り乱している。まずい。ここはもう、決断するしかない。耕平は、頭に浮かんだプロフィール画像のカリンさんの笑顔を振り払った。
「潤子、救急車を呼ぶぞ。いいなっ」
 固く目をつぶったままの潤子は、震えながら小さく頷いた。耕平はすぐさま119番に電話をし、ハキハキと妻の容体を説明した。

 救急車を待つ間、財布、健康保険証、潤子のお薬手帳まで見つけて鞄に入れた。いつもの俺とは違う。おろおろするばかりの真由子を横目に、我ながら機敏な動きをしていると耕平は、今この瞬間の自分に満足する。
 到着した救急隊は、一通り潤子のバイタルチェックを終える。血圧も心拍数もやや高い。潤子の病歴を訊かれ、お薬手帳を確認される。
 「大丈夫だから、真由子は家で待ってろ」
 耕平がそう言うと、
「イヤだ! 私も一緒に行く!」
 真由子は幼児のように駄々をこねて、耕平と一緒に救急車に同乗した。
 「お父さん、今日同窓会だったんでしょ。いいの?」
 救急車の中でいくらか落ち着きを取り戻した真由子は、泪をためた眼で耕平を窺う。
「馬鹿だな、そんなのいいんだよ。それどころじゃないだろ」
 ストレッチャーの上で苦痛に呻く潤子の姿を見たら、それがまさに自分の本心そのものではないかと、耕平は己の善良さに安堵しながら苦笑してみせた。
「お父さんがいてくれて、ほんとによかった……」
 真由子はそう言って、大粒の泪をポロリとこぼした。耕平の胸に熱いものがこみあげる。ほんの一瞬だが声をあげて泣きそうになった自分に驚いた。

 検査の結果、潤子は尿路結石症と診断された。激しい痛みを伴うことが多く、救急搬送される患者も珍しくないとのことだった。幸い大きな大学病院に搬送されたためすぐに入院して治療を始めることとなったが、月曜の朝には退院できると聞いて、耕平と真由子は胸を撫で下ろした。

 その晩遅く自宅に戻った耕平は、カリンさんにお詫びのメッセージを送ろうとした。カリンさんをどれだけ待たせてしまっただろうか。どんな言い訳をしたところで許されるものじゃあないだろう。
 そう思ってサイトを開くと、すでにカリンさんからブロックされていた。LINEを交換する前だったので、今となっては連絡を取る術もない。
 「そりゃそうだよな」と耕平は呟く。申し訳なく思いながらも、実のところそれほどのショックも受けていなかった。自分の選択を後悔もしていない。そうだ、自分は正しいことをしたのだ。立派に家族を守ったのだと、耕平はむしろ自分を褒め称えたい気分だった。
 真由子の泪を思い出しながら、「ペルセウス」を消した。耕平はララ・マッチを退会した。そして生まれ変わったような清々しい気持ちで布団に入った。
 
 潤子が退院した月曜の晩、知らせを受けた出張帰りの涼太が自宅にやってきた。
「ごめんね、お見舞いに行けなくて。ちょうど札幌に出張してたんだ。もう大丈夫なの? あれって地獄の痛みだって聞いたことあるよ。大変だったね」
 久しぶりの息子の優しい言葉に、潤子は満面の笑顔だ。
 「お父さん大活躍だったんだよ。お父さんが出かけるのが一分早かったら、私一人でパニックになってたと思う。ほんと助かった」
 真由子が涼太に向かって言う。可愛い奴だなと、耕平は心の中で真由子の頭を撫でる。 
「そうか。父さん、ありがとう」
 涼太みたいに爽やかに「ありがとう」と「ごめんね」を言える男ばかりだったら、世の中の女は皆幸せに違いない。潤子も穏やかな笑みで耕平を見つめている。
 ああ、この感じ。家族四人が俺を長として、俺に感謝と尊敬の眼差しを向けている、久しぶりのこの感じ。子供達がまだずっと小さかった頃に味わった記憶のある、まさにこの感じ。俺がずっと欲しかったのはこれなのか。耕平は、じわじわと自分の胸が温かいもので満たされていくのを感じていた。

 三日後、耕平が会社から帰宅すると、キッチンに潤子が立って料理をしていた。テーブルにはすでに、サラダや和え物などが並んでいる。何年ぶりの光景だろう。
 「おぅ、どうした。もう体調はいいのか」
 耕平が控え目に訊ねると、照れくさそうに微笑みながら潤子が言う。
「うん、ずいぶん楽になったわ。でも尿路結石ってね、繰り返しやすいんだって。血圧が高いことも判ったし、食生活見直して痩せないとダメだ、って医者に言われちゃった」
「そうか。そうだな」
 耕平は気の利いた言葉のひとつも返せなかったが、妻の手料理を前に、家族と食卓を囲む日が再び訪れたことに感動していた。人生ってやつは案外、ほんのちょっとしたことをきっかけに大きく好転するものかもしれないなと、ワカメときゅうりの三杯酢を咀嚼しながら耕平は思った。
 尿路を移動して潤子を苦しめた結石のおかげで、夫婦関係も母娘関係も健全になり、家族全員が健康になる、そんな可能性だってある。耕平はすこぶる気分が良かったが、潤子の料理の腕が落ちたのか、血圧を気にして減塩しすぎたのか、残念なことにおかずの味が薄すぎて白飯が進まなかった。

 「ねぇ、今度の土曜に涼太がね」
 ある晩、だいぶほっそりとしてきた潤子が、テレビ番組のCMの間に話しかけてくる。救急車で運ばれたあの日から、三か月ほどが経っていた。
「彼女連れてうちに来るって言ってるのよ」
「おぅ、そうか。まぁ、アイツも28だしな」
「それがね、マッチングアプリで彼女と出逢ったんだって。意外じゃない?」
 耕平の心臓が一瞬、ドキンと音をたてる。
 「マッチングアプリっていうのは、アレだろ、ほら、アプリに登録した男女が出会ってどうこう、っていう……、よく知らないけど週刊誌で読んだよ。しかし涼太がなぁ、アイツならそんなことしなくても、いくらでも彼女できそうじゃないか」
「そうでしょ、私もそう思ったんだけどね。『お母さんの頃とは時代が違うんだ』って言うのよ。仕事が忙しいと、案外出会いがないんだって」
「ふ~ん……そんなもんかね」
 耕平はたいして興味のないふうを装って、無意味にテレビのチャンネルを替えまくった。
「やだ、観てたのにぃ……」
 と、潤子が横で口を尖らせる。



4

 土曜日が来た。潤子は玄関とリビングダイニング、そこからいやでも見えてしまうキッチンを、せっせと片付け、掃除していた。大事な息子の彼女との初対面は、母親にとっては緊張を強いられる場面なのだろう。
 痩せたから服のサイズが合わなくなったと、以前は出不精だった潤子が百貨店に足を運び、新しい服を買ってきたようだった。ラベンダー色のニットは、色白の潤子の肌に良く映える。久しぶりにきちんと化粧をした潤子の姿にはグッとくるものがあった。
 ちゃんとすればまだまだいい女じゃないか。台所で湯を沸かす潤子の大きな尻を眺めながら、早々にベッドを移動したかつての自分の決断を悔んでみたりした。
 「私は遠慮しておくよ。ニートの妹は出てこないほうがいいでしょ」
 真由子はそう言って出かけて行った。高校時代の数少ない友達と久しぶりに逢うのだという。潤子の変化に引っ張られるようにして、この頃真由子も少しずつ殻を破ろうとし始めている。

 玄関のチャイムが鳴った。「はぁ~い」と、いくらか上ずった声で潤子が扉を開ける。涼太の隣に、スラリとした髪の長い女性がはにかんだ笑顔を見せて立っていた。
 その瞬間、「どこかで逢ったことがある」、耕平はそう確信した。しかしどこで逢ったのか、耕平はどうしても想い出すことができない。
 「こちら、高橋玲奈さん。僕より2歳年下」
「はじめまして。横浜市から参りました、高橋玲奈です」
「あらあら、『新婚さんいらっしゃい』の挨拶みたいね」
 潤子はいつもよりも1オクターブ高い、不自然にはしゃいだ声で笑う。 
 「これ、少しですけど、今朝焼いてきたケーキなんです。お口に合うといいんですけど」
 そう言って玲奈はケーキの箱を潤子に手渡す。
「あら、玲奈さんの手づくりなの? 素敵ね、ありがとう」
「玲奈は料理とかお菓子づくりとか、得意なんだよ。そのケーキも美味しいと思うよ」
 涼太が早速フォローをする。
 耕平は涼太の向いに着席して、玲奈のすっきりとした横顔に見入る。
 どこだ? どこで逢ったんだ、こんな可愛い子……。
 「彼女、乗馬も得意でね。この間初めて僕も乗馬クラブに連れてってもらったんだけど、近くで見ると、馬って綺麗なんだねぇ」
 乗馬! そうだ、26歳、横浜市、料理と乗馬! ミュウちゃんだ!
 瞬時に耕平の背骨が凍りつく。俺のお気に入りだった、あのミュウちゃんだ。まさか、まさかこんなところで……。マズイ。俺だとバレるか? 「いいね」を送った52歳のペルセウスが俺だと? 耕平は全身の血が抜けていくような気がした。
 「あれ、父さん、なんか顔色悪くない? 大丈夫?」
 まったくよく気のつく優しい息子である。
「いやいや、涼太が彼女連れてくるなんて初めてだからさ。こういうの慣れてないから珍しく緊張しちゃって」
 耕平はワハハハハと豪快に笑ってみせて、その場を和ませることに成功する。玲奈もちょっと困ったような顔で笑いながら、涼太と視線を絡ませる。 普段は滅多にかかない脇汗が、耕平の下着のシャツを湿らせていく。

 この後予定があるのだと言って、涼太たちは日が暮れる前には帰った。真由子は友達と夕飯を食べて帰ると連絡があった。潤子がお茶を淹れながら耕平に言う。
 「可愛い子だったわね、玲奈さん。しっかりしてるし」
「そうだな。お似合いの二人だな。で、二人はいつからつきあってるんだって?」
「つきあい始めてまだ三か月くらいだって。でも涼太は初めて逢ったとき『この子だ!』って確信したって。あら、さっき涼太が言ってたでしょ、あなた聞いてなかったの?」
 涼太らの会話も潤子の言葉も、今の耕平の耳にはほとんど入ってこなかった。
 三か月ってことは、俺が退会した頃からつきあい始めたってわけだ。つまりあの時期涼太も、あのサイトの会員だったってことか。ふぅ、危なかった。
 おかしな安堵感と拭いきれない不安感で、耕平の心はざわついていた。さらに愚かしいことに、自分の息子が最も輝いて見えた女性を容易く手に入れたという事実に、耕平はわずかに嫉妬していた。


5

 潤子は日ごとに痩せて綺麗になっていった。食生活が変わったことももちろんだが、何より身体を動かすようになったことが大きいのだろう。以前のようにソファで横たわっている姿を見かけなくなった。「更年期のトンネルを抜けたのよ」と潤子は笑う。
 母親というものは、愛しい息子の彼女にライバル心を燃やすものなのだろうか。潤子は料理にも身繕いにも、明らかに時間と手間をかけるようになった。
 そして潤子以上に変わったのは真由子だ。この二~三か月ほどの短い間に、驚くほど痩せて垢抜けた。何かが吹っ切れたように溌剌として見える。ちょっとした心持ちの変化や化粧で、ここまで女は変わるものなのかと、耕平は眼を洗われる思いだった。いつのまにか望月家から、二頭のトドは消えていた。

 ある晩、以前よりも口数の増えた潤子が耕平の顔を見て話し出す。真由子が最近、大手衣料品メーカーUの、バックヤード作業のバイトを始めたのだという。
 「あの子対人関係とか苦手だから、黙々と作業するのが向いてるんだって。『それでいいじゃない、よく頑張ってるよ』って、私言ってあげたの。何年も半籠りみたいな生活してたんだもん、外に出て働き出せたってことだけですごいと思わない? 私ね、あの子が変わるためには、まず私自身が変わらなくちゃって、この頃ずっとそう思ってきたのよね」
 潤子は自分でしゃべりながら感極まった様子で泪を拭っている。
「ああ……そうか。うん、そうだよな」
 相変わらず今夜も、残念な相槌しか打てない耕平だった。
 短く鼻息を漏らして耕平に背を向けた潤子は、乾いた眼でテレビの画面を見つめた。


 「……セウス」 
 翌晩、ダイニングで新聞を読んでいた耕平はギクリとする。
 今、「ペルセウス」と誰か言わなかったか? 
耕平の頭の中を疑惑と不安が高速で渦を巻く。
 「痛くなったら、すぐセデス~♪」
 漫然とついたままのテレビから、鎮痛剤のCMのメロディが流れてくる。
 ふぅ……なんだ、セデスかよ。耕平は深く溜息をつく。このところ耕平の聴覚は、明らかに過敏になっていた。

 夕飯の洗い物を終えた潤子は、はずしたエプロンを耕平が座る隣の椅子の背もたれにバサリと掛け、テレビの前のソファに腰を下ろした。潤子の好きな番組、「世界遺産を訪ねて」がちょうど始まるところだ。ソファの端には真由子が座っている。
 「ペル……」 
 そう聞こえて、耕平の両肩がビクッと上がる。
 おい、今誰か「ペルセウス」って言ったか? また聞き間違いか? 耕平はテレビの音声に耳を傾ける。
 「いいなぁ、ペルーかぁ……。でも遠いんだろうなぁ」
「お母さんね、実は昔からず~っと、マチュピチュ行ってみたかったのよぉ。死ぬまでにいっぺんでいいから」
 母娘はテレビを観ながら語り合っている。ドローンで撮影されたのだろうか、画面には上空からのマチュピチュの遺跡が大写しになっている。
 はぁ……なんだよ、ペルーか、ペルーね。勘弁してくれよ、紛らわしい。耕平は自分の耳を呪う。
 「お母さん、そんなに行きたいんだったら行ってくればいいじゃない、マチュピチュ。ねえ、お父さん、たまには旅行でも行ってきたら? お母さんと二人で」
「んっ、えっ、なに。なに言ってるんだ?」
 想像もしなかった娘のいきなりの提案に、耕平はしどろもどろになる。そもそも子供が生まれて以来、夫婦二人だけでは国内旅行すらしたことがないのだ。
「そ、そしたら真由子は家に一人でどうするんだよ」
「ちょっとお父さん、私もう25よ? 一人で大丈夫に決まってるじゃない」
 真由子は呆れ顔で耕平を見つめる。
 「ああそうか、そうだな。いや、でもさすがにペルーは遠いだろう。金もかかるだろうしさ……」
 煮え切らない耕平の言葉をぶった斬るように、潤子が太い声で言い放つ。
「自分のお金で行きますからっ!」
 かつて眼にしたこともない潤子の迫力に圧倒されて、耕平は言葉を失う。「だから真由子、来年、お母さんと二人でマチュピチュに行こう!」 
 キラキラと光る潤子の瞳には、輝かしいマチュピチュの遺跡が映っている。 


………. 第2章につづく ……….


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