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「誇り」という小難しい言い方をしてみたものの。

中学生の頃、大雑把な言い方だけれど、アメリカの大学に行ったことがあった。

こんなところで学びたいなあだとか、そういうことをふわふわ思っていた。

高校生になって、日本の大学にもたくさん見学に行くようになった。

なんだか違うような気がした。

あまりに青かった僕が思うことなんて唾棄すべきものかもしれないが、キャンパスを闊歩する学生の雰囲気が、なんだか違う気がした。

なんでやろ、と思って違いを炙り出す作業に入った。大層なことをしているように書いたが、ただ写真を見返していただけ。

するとだ。ヘンテコな違いに気がついた。
それは「海外大では、自大学のロゴやら印字やらが入ったスウェットやパーカー」を着ているひとが、日本の─まあ僕がよく研修会か何かで訪れていただけの、サンプルとしてはあまりに少ない、幾つかの─大学に比べ、あまりにも多いということ。

その当時僕は制服を着ることが当たり前の男子校の高校生だったから、私服で登校してもいいところに「わざわざ、自分の学校を示す服装で行く」という行動に至るまでの心情はあまり理解できなかった。
けれど、みんなでデザインを考えた部活のジャージを着ている時、なんだか僕は、えっへん、僕たちは柔道部なんだぞ(せっかくの青春を、僕は中高を通してあまりにも男臭い柔道部で過ごした)みたいなことを、思っていた。
実際僕はよくそのジャージを─たとえば、自宅でトレーニングする時だったり、ただ遊ぶためのフットサルだったり─着る必要もない場面で着ていたし、部活の仲間たちとそれに揃って誇らしげに袖を通した時、なんだか万能感さえ覚えていたものだった。

そんなことを夢想していた僕の中で、一つの結論が出た。
たぶん、自分の大学を示すものの入った服を着用する大学生たちは、かなり自分の大学が好きなんだろうな、と。

おそらく、そこには「自分の所属する団体への誇り」が根底にあるんだろうなと。
そして、

たぶん「自分の団体を好きになった方が、なんだか楽しいはずなんだろうな。」


──

僕が高校時代、恩師に貰った言葉の一つに「すべてにおいて、君は私の誇りでした」
というものがある。
卒業式の日、出会ってから数年、ずっと厳しかった彼から貰った色紙の裏には、よく知った字でそう書かれていた。

──
では海外大の学生は誇りを持っていて、日本の大学生はそうではないのか。
そんなことはないだろうし、そういうことを言いたいわけではない。


自分に・或いは自分の所属する団体に誇りを持っていることはすなわち、

自分が活動する上で、なんだか楽しく日々を過ごすコツのように思えるのだ。

誇りを持とうが持たまいが、どうせ過ごさなければならないんだ。
「ほんまに〇〇(=自分の母校)嫌いやわ」だとか「〇〇はここがあかんわ」と言っていようが、〇〇大好きっ子であろうが、過ごす時間も、やらなければならないこともどうせ同じ。

なら好きになった方が得だと思う。精神衛生上。

卒業した母校や引退した部活など、自分の出身団体を誇れることは、過去の自分を肯定することに繋がる気がする。

誰も、今自分がした選択が正解だなんて分からない。

過去の自分を肯定するために、過去の自分の選択を正解にするために、僕たちは前を向くのではないだろうか。

だからこそ、僕はなんだか「誇り」という言葉が好きだ。

たまたま、本当にたまたまなんだけれど。
僕の大学はそういう「ロゴ」やら「印字」やらを施した服を作るのが好きみたいで。
僕は今、電車通学をしている身だが、よくそういう服を着ている部活生を見かける。たぶんアレ、みんなに配られてる気もするけれど。
キャンパスにもそういうヘンテコなTシャツを着ている人たちでいっぱいの時がある。
そういえばこの前、後輩たちが同期で示し合わせて「近大魂」と書いたTシャツを全員で購入して着ていた。さすがにそれには驚いたけれど。まだ君たち一年生だろ。おかしな子たちだなあ。

でも、そういうところから、存外そういった小難しく聞こえる「誇り」みたいなものは生まれるのかもしれない。

どうか、次に僕と同じものを背負う後輩たちが自団体を、仲間たちを、自分自身を、たまらなく好きになってくれますよう。

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