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ニューノーマルとリベラルとエリート

■ニューノーマル

最近、同僚から

「『今は非日常ではなく、これが新しい日常(ニューノーマル)です』って、アフターコロナの絵を描くのはいいと思うけど、世の中すべての人がそれに対応できるわけじゃない。このメッセージがキツい人もいるよね。」

と言われてハッとした。
今、自分は大きな企業の方と接することが多いけれど、そういう企業は体力があるし、そこで働いている人達も当面の収入は保障されている。コロナウィルスで大変だとは言っても、いきなり生命の危機に直面するわけではなくて、「アフターコロナ」を考えるくらいの余裕はある。
そういう人を前提にしている自分を指摘された気がした。自覚していなかった。

■リベラル

そんな中、SNSで「価値観診断テスト」なるものが流れてきた。政治的な思想や外交安保に対するスタンスがわかるらしい。自分では自分の思想を測ったことが無いから、受けてみた。
結果、「リベラル」だと判定された。
曰く

「この象限に当てはまる人は、ライフスタイルに関する個人の選択の自由を尊重し、多様性と少数者の権利を信じています。社会正義のための国家による介入には肯定的で、格差是正や少数者の権利保護のために積極的な国家の役割を期待します。成長への関心は二次的で、資本主義の行き過ぎを是正する最適な政治経済体制を望む傾向にあります。自由を信じている一方で、社会的な価値観は収斂すべきだとみなす傾向にあります。」

そうなのかなぁ。意識していなかったけど。でも、違和感も覚えなかった。

■エリート

そしてまた、ふっと思い出したことがあった。もう20年近く前のこと。
ちょうど、日本サッカー協会が若年層のエリートプログラムを立ち上げる時、「エリート」という言葉が自分の中で引っかかったから、田嶋さんに聞いたことがある。

「なんでわざわざエリートなんて評判の悪い言葉を使うんですか?」

そうしたら、

「そのエリート観は間違っているよ。それが良くないんだ。日本には『真のエリート教育』が必要だ。だから、我々はそれにチャレンジするんだよ。」

と言っていた。
曰く、エリートというものには本来、卓越した能力に加えて、その影響力に相応しい、確固たる倫理観と社会に対して奉仕する責任、使命感が求められる。これらを全て備えた真のエリートの育成がこれからの日本には必要だが、いつからかエリート「もどき」が増えてしまった結果、エリートという言葉に良からぬイメージが紐づいてしまったから「復権」させるのだと、そういう話だった。
その時は「そういうものですか。」と聞いていたけれど、その後、その言葉は自分の中でずっと生き続けてきたような気がする。

■ニューノーマルとリベラルとエリート

紆余曲折を経て、今は大きな企業の「次世代リーダー育成」という営みのお手伝いをさせて頂いている。そこで自分がやりたいことは何か、と考えると、田嶋さんが言っていた「真のエリート教育」なのだと思う。
影響力が大きいリーダーの方々に向き合う仕事に大きなプレッシャーを感じることは多々あれど、そんな自分をプッシュするのは、「真のエリート」が世の中に増えて欲しい、という、個人的な願望なのだろう。

でも、そもそも自分は何が欲しくて「真のエリート」を待ち望んでいるのか?
それは恐らく

「救い」

ではないか。

自分の力では何ともならない、いかんともしがたい理不尽や、不条理に対する「救い」が欲しい。

本人が一生懸命努力して、やるべきことをやっても、どうしても乗り越えられない理不尽から、人は救われていいと思う。そんな「救い」のある世界が欲しい。

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