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MVとリンクする彼女たちの運命 【欅坂46】

櫻坂46のMVを観て

 櫻坂さくらざか46の3rdシングル『流れ弾』のMVが出揃ったこともあり、1stシングルから今までのMVを鑑賞してみた。その時ふと、既視感のあるシーンがいくつも見受けられることに気がついたので、その源泉を辿る作業を行うことにした。
 必然的に欅坂けやきざか46時代のMVも観ることになったのだが、やはり、欅坂46のMVの中に、元となるシーンが多いことが確認できる。
 それについては、以前からYouTubeなどでも、同様の内容をまとめた動画を見かけることがあったので、面白く拝見させていただいたが、今回の『流れ弾』に収録されている3曲のMVにも、オマージュされたシーンが盛りだくさんである。
 今回は、この一連の確認作業として、欅坂46時代のMVをデビュー曲から振り返ったことから、現実に起こった彼女たちの体験と、MVの内容が妙にリンクしているように感じられたので、そのことについて書いてみたい。

欅坂46のMVを区分けしてみると

 欅坂46のMVは、『不協和音』を転換点として、大きく変化しているようにみえる。

①「キラキラ」期(1st~3rd)
 『サイレントマジョリティー』による鮮烈デビューからの時期で、最もアイドルらしい活動が出来ていた時代。
 年末の単独ライブを経て、2016年紅白歌合戦に出場したことで、絶頂期を迎える。
 この当時のMVは、キラキラとした青春感のあるものが多い。

②転換点(4th)
 この時期に、アルバムの制作、ドラマ撮影、BINGO出演などが重なり、世間の認知度も上がり始める。『SONGS』で紹介されたのも同時期である。
 また、ライブ活動としても、「欅共和国2017」が開催され、そこで、グループとしても、平手さんとしても、最高密度のパフォーマンスを経験することになる。

 このことが、その後のグループが直面する、さまざまな苦難につながってしまう出来事であったことは、当時の彼女たちはもちろん、ファンや関係者も想像だにしなかったであろう。

③「ダーク・幻影・虚構」期(5th~8th)
 この時期になると、センター平手さんが不在となることが多くなる。
 「欅共和国2017」の時、その当時の最高点をたたき出してしまったライブパフォーマンスが、それ以降の全国ツアー欠席や、2017年の紅白出場後に「グループと少し距離を置きたい」という発言につながってしまうことは、ドキュメンタリー映画でも取り上げられていた有名な話である。
 あくまでも想像ではあるが、過去の自分を超えられない現実に、彼女自身が押しつぶされた形となってしまったのだろう。その後、怪我なども重なり、パフォーマンスに参加できない状況が、脱退する時まで続いてしまうことになる。
 ここでは、あえて「ダーク・幻影・虚構」という言葉を使ったが、MVから読み取れる記号や象徴の中に、死を連想させるものが多く見られるようになってくる。

5th「風に吹かれても」
 →喪服のような黒ネクタイと黒スーツ
       ラストの昇天シーン

・6th「もう森へ帰ろうか?」
 (『ガラスを割れ!』のカップリング曲)
 →工場の中に横たわる少女たちの群れ
  魂が抜けた人形のような目

・7th「アンビバレント」
 →どこか宗教服のような白衣装
  入水シーン
  リアルな存在感が希薄な平手さんの姿

・8th「黒い羊」
 →ロープで囲まれた事件現場
  階段上にある祭壇のような複数の蝋燭
  彼岸花

 このように、平手さん自身を、この世にいない儚い存在として描くことが多くなってくるのだ。
 それでも、まだ5th『風に吹かれても』の頃は、「避雷針」という打開法が示されているのだが、6th『ガラスを割れ!』では、「もう森へ帰ろうか?」「夜明けの孤独」という形で、平手さんが目の前からいなくなり、遠くに行ってしまいそうな、消えてしまいそうな様子が描かれるようになる。
 7th『アンビバレント』で「I'm out」し、8th『黒い羊』では、「知り合いに会いたくないから、遠くまで来てしまい、自分を知っている人が誰もいない」(「Nobody」)と歌っている。
 「風に吹かれても」を披露している頃から、歌番組やライブで「今回は平手さんが参加するのか」と言うことが話題になるくらい、彼女のパフォーマンスに触れる機会が少なくなってくる。
 その頃からファンは、今回が彼女のパフォーマンスが観られる最後になってしまうかもしれない、という気持ちで見守るようになっていく。それくらい彼女は、儚く危うい存在になっていたのだ。

 考えてみれば、4th『不協和音』の後にリリースされた1stアルバム『真っ白なものは汚したくなる』では、平手さんのソロ曲「自分のひつぎ」が収録されている。やはり、この頃から、彼女の存在は、どんどんと幻のようになっていたのだろう。
 脱退前の東京ドーム公演で「角を曲がる」ことを決意し、その後、ソロとして、プロのバックダンサーを率いて、自分がパフォーマンスをする意味(「ダンスの理由」)を披露し、最近では「かけがえのない世界」について歌っている。

 メンバーのインタビューなどを読んでいると、秋元氏が与える歌詞が「まるで自分たちに宛てられた手紙のような内容でびっくりする」と語っているのをよく目にする。
 秋元氏は、メンバーに対して、LINEのアカウントを教えて、言いたいことは直接教えてほしいと言っているようだが、実際にそれに応えているのは、ほんの数人らしい。彼自身が、総合プロデューサーという立場であることから、メンバーたちが遠慮してしまうのもよくわかる。
 それにも関わらず、その時のグループ内にある思いや心の中のわだかまりなどを、しっかりと見透かしているかのような歌詞をぶつけてくるのが、秋元氏のすごいところである。

 彼女たちの存在自体が刺激となって、歌詞が生まれ、その歌詞を元として、振付が構成されていく。
 「大人や社会への反抗」という内容を、当の大人たちに歌わされているという矛盾が、彼女たちの面白さであると言われてしまうことは少なくない。
 しかしながら、彼女たちの存在や思いが引き金となって、楽曲が生み出され、それを全身全霊でパフォーマンスしているのであれば、これはシンガーソングライターやロックミュージシャンのパフォーマンスと変わらないものであると言ってよいのではないだろうか。
 アイドルの楽曲というと、世間からはどうしても取るに足らないものと思われがちであるが、実際のところは、プロの作詞家、プロの作曲家、プロの振付師など、多くのクリエイターたちが集結して創り出されていることを忘れてはいけない。

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