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向上心が行き着いた先 ~KEYAKIイズムが導いたもの~

 先日の「FNS歌謡祭」(フジテレビ)で、過去のコラボ場面を振り返る企画が放送されていた。日向坂46は、グループ全体でパフォーマンスをしている場面が採用されていたが、欅坂46は、ほとんど平手さん1人が参加しているものが多く放送されていた。
 しかも、歌手としてではなく、ダンスでコラボしているものばかりとなっていたのが興味深い。

 平手さんのパフォーマンスを表現するとき、「憑依型」という言葉が使われることが多いが、本当にそうだろうか。
 憑依というと、己を無にして、何かがその肉体を操り、乗り移ったものに身を任せるということになるが、彼女の場合は、そうではないように感じる。
 歌詞や楽曲の世界観を深く読み込み、それによって導かれた「理想とするパフォーマンス像」に近づけようと、何度も繰り返し稽古をして、自分のものにしているように思えるからだ。
 その過程で、己の存在を限りなく透明クリアにして、歌や楽曲の世界にノイズを入れないように心がけるのだが、それは自分を虚無の状態にするのとは違う。歌や楽曲の世界を届けたいという彼女自身は、厳然と存在し続けるからだ。それは、どちらかというと、世界観を伝達する時に、邪魔になるような影を作らない、というのが近いのではないだろうか。
 しっかりと存在するが、光を通すレンズやプリズムのような存在と言うと分かりやすいかもしれない。

 平手さんが、「こち星」でラジオパーソナリティーをしていた頃、毎回、番組終わりに「その日の放送が何点か」自己採点をする場面がある。
 そこで、彼女があげる点数は、いつも一桁の低い点ばかりであった。
 このことでもわかるように、彼女は、目標とする理想像をかなり高く設定していることがわかる。
 向上心があり、己が作った高い目標に向かって、ひたむきに努力した結果が、彼女の活躍につながっていく。しかしながら、その高い理想が、彼女を苦しめる要因となったことも事実だろう。
 怪我で番組出演ができないことが多くなった頃、たまに出演しても、覇気が無く、精彩を欠くパフォーマンスとなってしまうこともあった。その様子を見て、やる気が無いという評価を下されてしまうこともあったが、彼女の性格から想像すると、そのようなパフォーマンスをするとは考えにくい。
 彼女としては、その時に出せる最大限のものを出しているのだが、本人の思うようにはいかず、その状況に、彼女自身が打ちのめされているというのが本当だったのではないだろうか。
 世間をあっと驚かすような、良い意味で観客の期待を裏切るパフォーマンスをしたいと、常々考えていた平手さんは、欅坂46というフォーマットでは、表現しきれない領域まで、足を踏み入れようとしていたのかもしれない。
 グループを離れるという結論に到ったとき、彼女の理想は、欅坂46の枠から、大きくはみ出していたのだろう。脱退というより、気がついたら、グループの境界を「飛び出していた」というのが、彼女の気持ちに近いように感じる。

 ソロになってから、プロのダンサーを率いて、再びパフォーマンスをしている彼女の姿を見ていると、こういうことがやりたかったんだなぁ、ということがわかる。
 もちろん、欅坂46に在籍したままでも、ダンス選抜メンバーを組んで同じようなことができたかもしれないが、グループ全体の方向性とマッチしないという判断だったのだろうか。
 何はともあれ、彼女のパフォーマンスに触れる機会があるだけでも、ファンとして、とてもありがたいことである。


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