見出し画像

14.わたしたちを誘惑に陥らせず

教皇フランシスコ、2019年5月1日一般謁見演説、「主の祈り」に関する連続講話から、以下、リンク先を紹介させて頂きます。

上記、リンク先より、個人的に、心に残った箇所を、以下、引用させて頂きます。

イエスご自身の人生にも、試練と誘惑というふたつのことが神秘的に訪れました。その体験によって神の子は、信じられないようなかたちで、完全にわたしたちの兄弟になられました。そして主の祈りを締めくくるもっとも難しい願いがすでにかなえられたことを、まさにこの福音箇所は伝えています。つまり、神はわたしたちを放っておかれるのではなく、最後まで「わたしたちとともにおられる神」として、イエスのうちにご自身を示されます。神はいのちを授ける際にわたしたちとともにおられますが、わたしたちが喜んでいるときも、試練に直面しているときも、悲しんでいるときも、罪に屈するときも、生涯を通して寄り添ってくださいます。神はつねにわたしたちとともにおられます。神は父であり、決してわたしたちを見捨てません。

2019年5月1日一般謁見演説より

もっとも過酷な試練のときにも、神はわたしたちを放っておかれません。ゲツセマネで祈るために一人になられたとき、イエスは――弟子たちに語られたように――言いようのない苦しみに見舞われ、独りで見捨てられたように感じました。世の罪の責任を独りで肩に担い、言いようのない苦しみを感じておられたのです。この試練はあまりにも過酷なものだったので、思いも寄らないことが起こりました。イエスはご自分のために愛を乞い求めることは決してありませんでしたが、その夜は、死ぬばかりの悲しみに心が覆われていたので、親しい人々に近くにいてくれるよう頼んだのです。「ここを離れず、わたしとともに目を覚ましていなさい」(マタイ26・38)。しかしご存じのように、弟子たちは恐れのために疲れ果て、眠り込んでしまいます。苦しんでおられるときにご自身を見捨てないよう神は人々に求めましたが、人々は眠り込んでしまいます。それでも神は人間が試練に直面するときには、見守ってくださいます。わたしたちの人生のもっとも不幸なとき、もっとも苦しいとき、もっとも痛ましい体験をしているとき、神はわたしたちを見守り、わたしたちのそばで戦ってくださいます。神はいつもわたしたちのそばにおられます。なぜでしょうか。神は父だからです。だからこそ、わたしたちは「主の祈り」を唱え始めたのです。御父は決してわが子を見捨てません。その夜のイエスの苦しみと悩みは、受肉の最後の刻印です。神は歴史を通して存在する闇と苦しみの中に、わたしたちを探すために天から降りて来られたのです。

2019年5月1日一般謁見演説より

イエスは試練におけるいやしです。イエスが渡ったからこそ、その谷がもはや荒廃したものではなく、御子がおられることにより祝福されているものだと分かったのです。神は決してわたしたちを見捨てません。

2019年5月1日一般謁見演説より

神よ、わたしたちから試練や誘惑のときを遠ざけてください。わたしたちの父よ、しかしその時が来たら、わたしたちが独りでないことをお示しください。あなたはわたしたちの父です。キリストもその十字架の重荷をすでに背負われたことをお教えください。イエスは、わたしたちがその十字架をともに担い、御父の愛を完全に信頼しながら身をゆだねるよう招いておられることをお教えください。

2019年5月1日一般謁見演説より

サポートして頂いた金額は、その全額を「障がい者」支援の活動に充当させて頂きます。活動やってます。 https://circlecolumba.mystrikingly.com/