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1.わたしたちにも祈りを教えてください

2018年12月5日から始まった、教皇フランシスコによる「一般謁見演説」は「主の祈り」に関する連続講話でした。
その「第1回目」です。

以下、わたしが気になった箇所を引用して、要約して参ります。

聖書のいくつかの箇所が示唆しているように、何よりも重要で、すべてを支配しているのは、イエスの祈りと、イエスの御父との親しい交わりです。とりわけゲツセマネの夜にそのことがよく表れています。このイエスの旅の最終段階(それまでの中でもっとも困難な局面)は、御父の声につねに耳を傾けることに意義を見いだすように思われます。もちろんそれは、容易な祈りではなく、試練に立ち向かう闘士の真に「苦しい」祈りであると同時に、十字架の歩みを支える祈りでもあります。

2018年12月5日一般謁見演説より

イエスは、この世のすべての人と同じように祈りをささげました。しかし、その祈りには何か神秘的なものが含まれており、そのことを弟子たちは見逃しませんでした。だからこそ、福音の中には極めて率直で切迫したこの願いが記されているのです。「主よ、……わたしたちにも祈りを教えてください」(ルカ11・1)。弟子たちは祈っているイエスを見つめ、祈りを教えてほしいと頼みます。「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください」。そしてイエスはその願いを退けません。イエスは御父とご自分との親しい交わりを独り占めにしようとはしません。イエスはまさに、御父とのその交わりをわたしたちの間に広めるために来られたのです。こうしてイエスは、弟子たちに祈りを教える先生となります。そして、わたしたち全員の祈りの先生にもなりたいときっと望んでおられます。わたしたちも「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください。教えてください」と唱えましょう。

2018年12月5日一般謁見演説より

長年、祈ってきても、まだ学ばなければなりません。人間の祈り、それは魂からごく自然に湧き上がる願いであり、おそらくこの宇宙でもっとも深遠な神秘の一つです。自分が神にささげている祈りが、本当に神の望まれている祈りかどうかも、わたしたちには分かりません。聖書には、神から最終的に拒絶される不適切な祈りに関する記述もあります。ファリサイ派の人と徴税人のたとえを思い起こすとよいでしょう。義とされて家に帰ったのは、後者である徴税人だけです。ファリサイ派の人は自分の祈っている姿を見せびらかしたいと望んでいる傲慢な人であり、心は冷えているのに、祈っているふりをしていたからです。彼は義とされないとイエスは言います。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(ルカ18・14)。祈りの第一段階はへりくだり、神のもとに行き、「わたしを見てください。わたしは罪びと、弱くて悪い者です」と言うことです。それが各自で唱えるべきことばです。しかしつねに最初に、へりくだってください。そうすれば主は聞いてくださいます。主はへりくだった祈りを聞いてくださいます。

2018年12月5日一般謁見演説より

したがって、イエスの祈りに関するこの連続講話の始めに行うべき、もっとも素晴らしく適切なことは、弟子たちのこの願いを繰り返すことです。「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください」。待降節にこの祈りを何度も唱えることは素晴らしいことです。「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください」。わたしたちは皆、もっと踏み込んで、より充実した祈りをささげることができるかもしれません。それでも「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください」と主に願い求めてください。

2018年12月5日一般謁見演説より

したがって、イエスの祈りに関するこの連続講話の始めに行うべき、もっとも素晴らしく適切なことは、弟子たちのこの願いを繰り返すことです。「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください」。待降節にこの祈りを何度も唱えることは素晴らしいことです。「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください」。わたしたちは皆、もっと踏み込んで、より充実した祈りをささげることができるかもしれません。それでも「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください」と主に願い求めてください。

2018年12月5日一般謁見演説より

次回は「2. 信頼のうちに願い求める祈り」です。


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