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中公新書の1冊から…

タイトル画像は拝借したもので、新宿にある紀伊国屋書店(本店)になります…。

さて、本日は、中公新書の1冊、そのご紹介です。
以下の本になります。

ついさっき、手短に、「読書メーター」へブックレビューを書かせて頂きました。

上記、ブックレビューにも書かせて頂きましたが、こちらの1冊にて「遣唐使」という用語にて、掲載されているページを調べてみたところ、「空海と最澄」という記述を見つけました。
以下、そちらからの引用です。

徳宋が亡くなるわずか一か月前、日本からやってきた遣唐使の使節団が長安に到達した。この中には真言宗の開祖となる空海がいた。最澄もこの遣唐使のメンバーだったが、すでに日本で内供奉十禅師(ないくぶじゅうぜんじ)となって宮中に参内する身分にあり、通訳髄伴の請益僧(しょうやくそう)としての渡唐だった。これは遣唐使と往復するだけで、短期間の視察・見学しかできない。最澄は八か月余りしか唐に滞在せず、その間に台州(たいしゅう、浙江省台州市)と同州にある天台山で天台教学を、越州(えっしゅう、浙江省紹興市)で密教を学び、およそ230部460部におよぶ経疏(きょうしょ)やさまざまなものを持ち帰り、日本天台宗の開祖となる。
一方、空海は、当時まだ日本では有名ではなく、遣唐使が出発する直前にようやく正式な僧侶となっている。しかし、唐における知名度では、空海のほうが高かったようだ。唐側の資料には「〔徳宗の]貞元(ていげん)年間の終わり、日本の王は桓武(かんむ)といい、使者を派遣し朝貢してきた。その学子の橘逸勢(たちばなのはやなり)、浮屠(ふと、僧侶)の空海は[長安に]とどまって学ばんことを願った」(『新唐書』巻220「東夷伝・日本条」)と記録されている。唐の日本に関する記録は歴代の天皇の名や遣唐使の大使の名は記されるが、それ以外の人員の名が残るのはわずかだ。その中で空海が記されたのは、それなりの理由があったのだろう。
留学僧(るがくそう)として20年ほどの留学期間があった空海は、長安の日本人僧の拠点となっていた西明寺(さいみょうじ)に寄宿した。当時の西明寺には、不空の弟子でカシュガル出身の慧琳(えりん)がおり、また、新訳の密教経典も集中して所蔵されていた寺院だったらしく、長安における密教情報センターにような拠点であった。このような寺院に滞在した空海が、密教に関する最新の情報を手にいれたことは容易に想像できる。やがて空海は、青竜寺にいた不空の弟子にあたる恵果(けいか)と邂逅(かいこう)し、師事した。そして短期間に『大日経』系と『金剛頂経』系の両部の密教を伝法され、阿闍梨(あじゃり)位の灌頂(かんじょう)を受けた。と同時に恵果も亡くなり、空海は2年足らずの留学を切り上げ帰国するのだった。

『唐』(中公新書)から234頁から235頁まで引用

上記、引用が長くなりましたが、短文にして、最澄と空海について、よく、まとまった名文かと思われたので、その大部分を書き記しました。

「最澄と空海」とは、それだけでテーマとなって、1冊の本が組まれるほどのテーマですが…

この中公新書の『唐』において、集約された「最澄と空海」は、遣唐使としての両者の「違い」について触れただけでなく、空海のみが「唐」の歴史書に記録が残っていると、そう伝えているのです。

著者ではないですが「それなりの理由があったのであろう」と、わたしも察します。

今日は、良い読書ができました…。

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