見出し画像

7.天におられるわたしたちの父よ

教皇フランシスコ、2019年2月20日一般謁見演説、「主の祈り」に関する連続講話から、ご案内をさせて頂きます。

以下、個人的に大切と思われる箇所から引用させて頂きます。

ですから、自分の親の姿を思い浮かべ、とくに親が自分たちを愛してくれたことを考えながら、「父」である神について語る際には、それより先に踏み込まなければなりません。神の愛は、イエスがそう唱えるよう求めているように、「天におられる」父の愛だからです。神の愛は、この世の人生では一部しか味わえない完全な愛です。人は絶えず愛を求めます。わたしたちは愛を求める愛の物乞いであり、最終的に愛してもらえる場所を探していますが、見つけられずにいます。この世界には、失望させられる友情や愛情がどれほどあることでしょう。本当にたくさんあります。

2019年2月20日一般謁見演説より

その一方で、「天におられる」御父の愛という別の愛があります。この愛を受けられないのではないかと疑ってはなりません。御父はわたしたちを愛してくださいます。わたしたちは、「御父はわたしを愛してくださる」と言うことができます。たとえ自分の親が愛してくれなくても――歴史を通して存在する仮説です――、地上ではだれもしなかったし、またできなかったように愛してくださる神が天におられます。神の愛は絶え間なく続きます。預言者イザヤが言う通りです。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子をあわれまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたを、わたしの手のひらに刻みつける」(イザヤ49・15-16)。入れ墨が最近、はやっていますが、「わたしはあなたを、わたしの手のひらに刻みつける」ということは、わたしはあなたをわたしの手のひらに入れ墨するということです。ですから、わたしは神の手のひらに刻まれ、決して取り除かれることはありません。神の愛は、決して忘れることのない母の愛のようなものです。そしてもし母が忘れてしまっても、「わたしは決して忘れない」と主が言ってくださいます。これこそが神の完全な愛です。わたしたちはそのように、神に愛されています。たとえ、地上の愛がすべて崩れ落ち、手にはほこりしか残っていなくても、神の忠実で唯一の愛はつねにわたしたちを燃え立たせます。

2019年2月20日一般謁見演説より

「天におられる」という表現は、遠くに離れていることを表しているのではなく、愛そのものの抜本的な違い、愛のもう一つの側面、たゆみない愛、つねにそこにあり、手が届く愛を表そうとしています。「天におられるわたしたちの父よ」というだけで十分です。そうすれば愛が訪れます。ですから恐れないでください。わたしたちは皆、ひとりではありません。もし不幸にも、地上の父親があなたのことを忘れ、彼に怒りを感じたとしても、あなたは神によって深く愛されている子であり、人生にどんなことが起こっても、神のあなたへの深い愛が消えることがないことを知るという、キリスト教信仰の根本的な体験を否定されたわけではありません。

2019年2月20日一般謁見演説より

サポートして頂いた金額は、その全額を「障がい者」支援の活動に充当させて頂きます。活動やってます。 https://circlecolumba.mystrikingly.com/