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天才と天才の協力物語~ノーベル賞の妻は共同研究者~ その2 下村夫妻

下村脩(2008年、ノーベル化学賞)下村明美 ご夫妻

「私は輝くものならハゲ頭を除いてすべておもしろい」
「子どもたちにはどんどん興味を持ったことをやらせてあげて。やり始めたら、やめたらダメですよ」

 2002年の田中耕一先生の化学賞、小柴昌俊博士の物理学賞以来、6年間ノーベル賞の授賞式に日本人は立ちませんでした。
 しかし2008年は南部陽一郎博士、小林誠博士、益川敏英博士が物理学賞に、その上化学賞は下村脩先生に決定したのです。
 まさしく第二のノーベルフィーバーの年でもありました。

 下村脩博士の研究は「緑色蛍光タンパク(GFP)」の発見でした。これはオワンクラゲがなぜ光るのか、そしてその発光物質を取り出すことはできないのか?ということから始まった研究でした。それを1962年に単離・精製に成功したのです。

 下村脩博士の半生も苛烈です。
 父が軍人だったため子ども時代は日本国内はもちろん、満州など引っ越しの数々。その中で最も長く住んだのが長崎だったのですが16才の夏、爆心から20キロと言うところで原爆に遭遇するのです。
 しかも物資の不足を補うために学徒動員が行われていたので、中学時代はまともに勉強をすることができず働くこととなり、内申書を取ることができません。そのため希望の旧制高校に行くことは不可能でした。

 長崎での原爆の遭遇、高校への入学ができないことなどで厭世的な考えを持つもののそれでも近くに移転してきた旧制長崎医科大学付属薬学専門部(長崎大学薬学部の前進)に入り、研究の面白さにとりつかれます。
 卒業後、就職か研究かを悩むも武田薬品工業の就職試験の際に面接官に「あなたは会社員に向きません」との忠告を受け就職を断念。研究の道へ邁進していくのです。

 その後は長崎大学薬学部で研究の後、名古屋大学で有機化学の平田博士の研究室ので研究生となります。その時有機化学の研究者としての道を歩むことになります。
 平田研究室では難題とされていた「海ホタルのルシフェリン(発光素)の結晶化」にかかわりなんと10ヶ月で成功。27才の下村先生にとって輝かしい業績の幕開けとなります。
 その後、発光素の研究に邁進されます。

 その研究と論文に感銘を受けたのは国外も同じでした。なんとアメリカのプリンストン大学から1959年、昭和34年、招聘されたのです。
 下村先生はそれを快諾するもハーバード留学体験のある平田博士は博士号をもっていると報酬が倍増されると知っていたため、なんと博士課程ではない下村先生に博士号を与えることにします。翌年4月には「海ホタルルシフェリンの構造(第2~3報)」の論文に対し理学博士が授与されます。
 それを持ち4ヶ月後の1960年、昭和35年の8月、フルブライト奨学生としてプリンストン大学へ博士研究員として留学します。この時下村博士30才でした。
 3年間、プリンスト大学で同じく発光素を持つオワンクラゲの研究を精力的に行うも期間を終え帰国。
 再び名古屋大学で職を得て、助教授となります。

 そこで妻の明美さんと出会い、結婚します。

 しかし日本では安定した収入はあれど雑音が大きく、アメリカみたいに思うような研究ができずにいました。悩む夫に、生まれたばかりの長男を抱えた明美さんがアメリカに戻ることを助言します。
 再び1965年、昭和40年、下村博士35歳の時にプリンストン大学での上席研究員としてアメリカに再渡米し、生活の拠点をアメリカに移します。

 当時、発光素の研究はさほど重要な研究とされておらずそのため大きな予算も得られませんでした。
 ですから限られた予算を大切に使うために毎年夏になると家族総出で5000キロの旅に出て、延々とオワンクラゲを取りに行くサンプル採取の旅にいくほどでした。
 その数、19年間に85万匹。
 これは下村家のご家族の夏はクラゲまみれでよく奥様もお子さん方もついて行かれたなぁと驚嘆するばかりです。

 しかし奥様の明美さんもやはり天才であり、才女でした。
 なんと実は奥様は薬学部の後輩。
 当時はまだまだ戦後の傷が残る時代。そんな中で比較的女性にも門戸が開かれていたとはいえ国立大学の薬学部に在籍するというのは優秀な人であることには間違いありません。

 だからこそまだ生まれたばかりの1才の長男がいても、夫であり尊敬できる研究者がより良い研究場所に出会うためならばアメリカに行くことも恐れなかったのでしょう。
 渡米した昭和40年はいまほどアメリカは近くありません。そんな中、夫の才能を見抜き、信頼し、アメリカにいく背中を押した彼女は才女と言うほかありません。

 現在も下村博士の助手として活躍しており、この最高の助手兼親友兼恋人兼家族の協力があったからできた偉業とも言えるでしょう。

 このGFPが脚光を浴びるのは「生化学系に与える影響が少ない」ことでした。これは単純に言えば「投与した生命やタンパク質に大きな被害をもたらさず、生きたまま光らせる事ができる」ということです。

 そのため生命科学分野では生命体にある多くのタンパク質が生体内でどう動くのかを研究するのですが、それを追うためにはGFPは格好の物質でした。これにより生命科学分野は大きく発達したのです。

 なんともはや、家族総出の夏のクラゲ旅行が生命科学の歴史を塗り替えたとも言えるのです。

 
 しかしそんな下村博士の研究を助けた息子さんですが一時は家族と上手くいかないこともあったそうです。
 明美さんによると子どもの頃から壊したおもちゃ修理をすることに関心があり、10才でコンピューターを知るとその虜に。12、13才にはもうプログラミングのアルバイトができるほど。そして物理学に興味を持つようになり、将来は物理学者を目指します。

 しかし頭が良すぎる分社会に上手く適応できず苦しんだことも多かったようです。
 アメリカはギフテッドと呼ばれる高知能、高才能の子どもを教育することの上手さに定評はありますが、まだ彼の子どもの頃では十分ではなかったようです。
 そのため父の大学のコンピューター室にこもって一人の時間を孤独に過ごす日々。
 彼は17才でカリフォルニア工科大学に入学し、19才でロスアラモス国立研究所へ移りハッカー対策の研究をすると共に物理学の研究者となります。
 その後彼はFBIと協力し稀代のクラッカー、ケビン・ミニトックを捕まえたことで有名になります。

 そうです。下村脩博士の長男さんはご存じ「Takedown」の作者であり、映画にもなった天才ハッカー「下村努」先生です。

 いやはや一人の女としてこんな難しい案件もないでしょう(笑)
 しかも母国ではないアメリカ。親戚など頼りにできる人も多くない環境でよくこんな難しい息子さんを育て、かつ共同研究者ともいえる夫の研究をサポートできたものだと心底感心します。

 子育てほど大変で難しいものはありません。下村努先生もご両親とは確執があった時代もあったものの朝日賞の授賞式やノーベル賞の授賞式には駆けつけてくださり、やはり強いご家族の絆があったことが感じられます。

 もし下村明美さんという稀代の天才がいなければこの二人の才能が生かせず、この二人の天才も生まれなかったのでは・・・と個人的には思ってしまいます。

 しかしお写真を拝見するとそれも納得。信念のある瞳に美しい所作。やはり知性があふれ出ております。
 こういう年の取り方をしたいとしみじみ感じ、心から尊敬する女性です。
 


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