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天才と天才の協力物語 ~ノーベル賞の妻は共同研究者~ その1 田中夫妻

 2018年のノーベル医学生理学賞は以前から噂されていた通り京大の本庶佑先生が受賞されました。まことにおめでとうございます。

 自分自身、東洋医学とはいえ医学の末席関わらせていただく者としては本庶先生がLD-1を発見された事によって以前から噂されていても証明が難しかった「ガンから出される物質によって免疫系の効果が弱くなる」というのを証明された時は目が落っこちるほど驚いた記憶があります。
 その後オプジーボ(病院ではオプジーバと呼ばれてたけどどっちなんでしょうね?)が利用されるようになり医療効果をあげてから、ガンだけではなく医療が新たな段階に来たとしみじみ感じるようになりました。

 そんな中での受賞、まことにおめでとうございます。

 テレビやネットもお祭り騒ぎなのはまあ分かるのですが・・・

 すごくもの申したいことがあるのです。

「家族、特に妻が支えてくれたからこんな研究ができた」

 この言葉、受賞者ご本人の多くがおっしゃっいます。
 ご家族、特に奥様に対する愛情を感じられてすごくよく分かり私は大好きなのですが・・・

「内助の功があった」「女性が支えたり、犠牲にならないと良い仕事ができない」
        =
「だから女は自分の役割を考えて黙って夫や家族の奴隷になれ」

と思わせる報道にするのはどうかと思うのです。あまりにも女性に失礼です。

そして何より受賞者の奥様にとってこれほどひどい発言もないと思うのです。

 と言いますのも日本人のここ数年のノーベル賞、特に物理学賞、化学賞、生理学・医学賞のこの参照を受けられた方々の奥様の記述を見ていると確かに夫を思い、家族を思う素晴らしい女性ではあると思うのですが・・・

 
 ただ耐えるだけの女性ではないのです。

 夫を叱咤激励をし、生活を支え、その情熱を分かち合い、だからこそ黙するべき所は黙し、耐えるべき所は耐える・・・
 同じ情熱を持っている知性あふれる女性だからこそできることです。

 夫婦という形ではあってもやっていることは「メインの研究者を家庭生活の面でも支える共同研究者」だと思っています。

 つまりあの「家族、特に妻が支えてくれたから・・・」という言葉は

私は素晴らしい共同研究者がいて、家庭生活など不得手の部分をサポートしてくれた。
 おかげで自分は自分以上の力が出せた。共同研究者に心から感謝をします。

と言う言葉だと思います。

 というのも自分自身が研究者の妻という立ち位置におりまして、なかなか研究者というのは普通の感性でとらえようとすると難しい、不思議な心の動きがあります。
 それは何かを明らかにし、真理を捕まえようとする限り、虚飾の多いこの世界とはやはりズレてしまうのでしょう。逆にその虚飾の世界から逸脱しなければ見えないものなのかもしれません。

 特にノーベル賞のようなものを受賞できるには、逸脱した才能の代わりに逸脱したマイナスがあって当然です。

 では3人の素晴らしきノーベル賞の先人とその素晴らしき共同研究者たる奥様の逸話をご紹介しましょう。

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田中耕一(2002年、ノーベル化学賞)田中裕子 ご夫妻

「ノーベル賞受賞前にですね、役職に就かないかと言われたんです。年収は上がるけれどそれは研究者には戻れないということです。
 それで妻にそのことを相談したら、あなたには研究から離れる事は無理だから役職は辞めた方がいいと言われたんです。」

 これは確か「生涯最高の失敗」か受賞直後のNHKのドキュメンタリー放送でおっしゃっていた言葉です。

 田中先生ほど研究者以外に会社員までも熱狂させたノーベル賞受賞者も居なかったのではないでしょうか。
 なにせ世界初のサラリーマン受賞者にてノーベル化学賞を学士で唯一、しかも43才という異例の若さで受賞したからです。
 受賞の翌年には今まで小学生男児の将来の夢で後ろの方だった「研究者」が一躍トップになるほど熱狂は世代を超えていました。
 

 ではそんな田中耕一先生がどんな人かというととても不思議で魅力あふれる人です。

 富山県富山市の自営業を営むご夫婦の家で育った田中先生は普通のおとなしい子だったそうです。
 ご家族に言わせれば「手のかからないおとなしい子」だったそうです。でも勉強は好きだったそうです。
 また同級生からしても自己PRする方ではなく地味な方。ただ周囲がケンカすると双方の言い分を聞いて回るということから「問題解決能力」は子ども時代から発揮させていたようです。
 その能力の高さをうかがわせる小学校のエピソードがあります。
 先生が磁力の説明のためにクリップをつけた発泡スチロール性の船を水に浮かべ、そこに磁石を向けると船は一気に磁石の方に引き寄せられます。しかしそのスピードが速すぎて観察するには不向きだと先生が悩んでいると田中先生が
「先生、油を使いなよ。油だったらゆっくり進むよ。」
とアドバイス。なるほどと思い油でやってみると粘度のおかげで船はゆっくり進み観察ができたそう。これには先生も驚いたそうです。

 特に目立つわけではないけれど、真面目で実直な彼は東北大学工学部へ進学します。
 しかしそこで戸籍抄本を初めて読み自分が養子だったことを知ります。なんと田中先生の実母は生後一ヶ月で病死、そのため叔父夫婦の家に引き取られその後養子になっていたのです。そしておじさんと呼んでいた人が実父だということも知ります。
 そのショックもあり、ドイツ語の単位を落としてしまい一年大学を浪人してしまいます。

 しかしその期間は新たな夢を田中先生に埋めました。

「赤ちゃんもお母さんも病気にならず助けたい。」

 それが田中先生の原動力の一つになっていきます。
 大学卒業後は大学院に進まずそのまま1983年、昭和58年に島津製作所に就職します。
 島津製作所ではとにかくまじめでおとなしいが頑固でマイペース、物静かな変人というのが彼の評判。
 なにせ身の回りを気にせず、洗うのがめんどくさいと言う理由で突然頭を丸刈りにして出社してきたりとなかなかのマイペースっぷり。会社内でもいい人だけどちょっと変わっている、まあ研究者気質だからね・・・と思われていたようです。

 しかしその彼の生真面目な研究者気質はなんと入社2年目で花開きます。それは「ソフトレザー脱着法」です。
 タンパク質などの質量分析を行う際には気化とイオン化が必要です。しかし元々タンパク質は気化もイオン化も難しい物質。単純にレーザーを当ててしまっては分解されてしまうため分析ができません。気化とイオン化のためにはタンパク質をほどよく守るエネルギー緩衝材が必要でした。
 その研究を任された田中先生は何百種類もの量を変えたエネルギー緩衝剤を作るものの上手くいかず、たまたま間違えてしまった試薬で実験したところなんと大成功。
 それを島津製作所が1985年、昭和60年に特許申請、分析機を島津製作所から発売されました。

 しかしその直後、「MALDI-TOF MS」という同じような分析機、しかも高精度のものがでたことにより島津製作所の分析機は全く売れませんでした。生命科学分野では今でも「MALDI-TOF MS」のが主流です。

 そんなわけで栄光もすぐに忘れられてしまい、田中先生もそういえばそんなこともあったよなぁ~くらいな感じで研究に邁進。
 イギリスのグループ会社に出向させもらい研究する中、彼にはもう一つの戦いがありました。
 結婚相手を見つけるという戦いです(笑)

 なんとお見合い回数20回。当時田中先生は30代半ば。晩婚化が始まった時代とはいえ結構遅い出足です。
 その中で同じ高校出身の6期後輩にあたる女性、裕子さんと出会います。
 裕子さんは田中先生の第一印象は優しそうな人で自分にとって嫌いなところが一つもなかった、北日本新聞のインタビューでおっしゃっています。
 そして田中先生が36才の時、お二人は結婚します。
 
 それからは家庭のことは奥様となられた裕子さんが一手に引き受け、色々と田中先生を身ぎれいにするよう助けたりなど日常生活でのサポートをなさったそうです。
 またイギリスでの出向なども経験し、二人は仲むつまじく暮らしている頃、とある悩みが田中先生を襲います。
 

 それは役職に就くか就かないかの選択です。

 当時、田中先生は主任でした。主任とは平社員であり、それ以上になると役職に就かなくてはいけません。それは研究から離れると言うことでありそれは「赤ちゃんもお母さんも病気にならず助けたい」という夢を直接的には叶えられなくなります。
 生涯を一エンジニアでありたい田中先生としては研究から離れるのは抵抗がありました。
 でも妻のことを考えればそうも言っていれない。(ちなみに当時の主任クラスでは800万、役職の係長は900万近く、最高位の部長職では1200万程度なので結構な額が変わります)

 そんな悩みを裕子さんに言ったところ、「あなたには研究が離れるのは無理だから」と逆に諭されたそうです。
「これ以上、年収もあがらないよ」と聞くも「それでもいい」と即答されたそうです。

 そう裕子さんに言われたことで田中先生はホッとしたとともにとても感謝され、役職は断ったそうです。

 彼が所属する島津製作所はそうは言っても会社組織です。研究だけしていれば良いというわけではありません。
 そういう狭間で苦しみながらも研究を楽しむ田中先生を一番近くでよく見ていたのは奥様の裕子さんだったのでしょう。だからこそそう即答ができたのだと思います。

 そしてそれは家族というより同じ夢を叶えようとする共同研究者の目線です。彼女は田中耕一という共同研究者とおなじ目線でおなじ夢を見、そして細くとも長く続ける判断をしたわけです。

 さてさて役職を断り、田中先生は研究に邁進し、裕子さんは年収が上がらないからこそほどよい節約で家を守り、派手ではない実直な、けれど穏やかな家庭の日々を楽しんでいました。
 
 研究に集中してしまうと食事も忘れる田中先生のために弁当を持たせ、身だしなみをめんどくさがる田中先生にちゃんと身だしなみを整えさせ髪を染めるように言い、田中先生が周囲と不必要な齟齬を起こさないように裕子さんは見えない労力を供出し、それに田中先生が感謝する・・・
 一見すると普通だけれどそこには互いの敬意と尊重が混じり合う、夫婦よりももっと濃厚な信頼の絆で結びついた二人に結婚7年目にしてとんでもないことが。
 

 それは入社2年目の研究がノーベル賞を取ったという電話です。

 なにせそんなに売れなかった過去の研究であり、直後に出された「MALDIーTOF MS」のが一般化しているわけですから「同僚がいたずらしてるな」と思って冷静に対応するもなんと本当でした。

 島津製作所も大慌てで会見を開く準備はするもののなにせ大きい会社で当時「田中耕一」が二人いたこともありどっちの田中だ!と大騒ぎ。
 やっとソフトレザー脱着法の田中だとわかり、緊急会見。
 裕子さんとしても結婚前の研究ですし、ラジオで夫がノーベル賞受賞という速報に驚き、何ごとかと思わず電話をかけるとちょうど記者会見中でこれもまた世間の話題になりました。
 
 あまりにも衝撃的なノーベル賞でご夫婦の日常は大騒ぎになりますが、聖人化されたり研究したいのに忙しくてできないなどのマイナスはあれどノーベル賞はご夫婦が念願だったものを与えてくれました。
 
 それは島津製作所におけるフェロー職の設置です。この場合のフェローとは単純に言えば「研究職だが役職相応の待遇をする」というものです。
 田中先生はそのフェローに就任します。一生をエンジニアとして過ごしたい田中先生にとってみればこれほど望ましい待遇はありません。
 そしてもしあの時裕子さんが田中先生に役職に就くように勧めていて、田中先生が役職に就いていたらフェロー職は誕生しなかったかもしれません。
 そしてこれは島津製作所で後に続く研究職を続けたい人たちにも希望にもなりました。

 ノーベル賞受賞後も田中先生の研究意欲は変わらずです。なにせ根っからのエンジニアですから。
 なにより彼の「赤ちゃんもお母さんも病気にならず助けたい」という夢を叶えるためにはまだまだ研究が不可欠であり、その夢は道半ばです。
 最近のご活躍は「アルツハイマー病の診断ができる検査法の確立」という実績であり、2013年の講演では「血液1滴から病気を早期発見できるようにするのが、私の実現可能な夢だ」とおっしゃっています。

 私は田中先生と裕子さんならマリー・キュリー博士に続く2分野でのノーベル賞受賞という奇跡もおこすかもしれないな・・・と内心思っています。
 



                  ~その2 下村夫妻 ~ に続きます

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