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天才と天才の協力物語~ノーベル賞の妻は共同研究者~その3 大村夫妻

大村智(2015年ノーベル生理学・医学賞)大村文子 ご夫妻

「北里柴三郎氏から受け継いだ『科学者は人のためにやらなければだめだ』という精神」
「病気がちでありながら 絶えず前向きに生き 人生を楽しみ 人のために尽くした 文子の短くはあったが その生涯を讃えながら筆を置く(大村文子の生涯の巻末にて)」

 最後にご紹介するには大村メソッドと呼ばれる「共同研究の提案をし、研究資金を出してもらう。その資金で研究し、成果が出たらその会社にライセンスを渡し、売り上げた分だけ特許料をもらう」という日本ではまだやっていない産学連携はしりで研究費を集め、そしてその方法でエバーメクチンとイペルメクチンを発見し、西アフリカで3億人の人の失明などを救う「メクチザン」を誕生させた大村智博士です。

 大村智先生も決して裕福な子ども時代ではありませんでした。
 山梨県で生まれた彼は元々小学校の先生だった母と農業を営む父の5人の子どもの長男として生を受けます。
 時代的にもまだまだ日本が貧しい時代で小さい頃は自分も農家を継ぐんだと思っていたそうです。しかし高校3年で思いがけず父から「勉強するなら大学に行っても良い」と言われ短期間の猛勉強で山梨大学に入ります。
 卒後は教員を目指しますが当時山梨での教員採用がなかったため、東京の教員採用試験を受け合格。都立墨田工業高校の定時制で教員の道をすすみます。

 しかし定時制高校に来る彼らのひたむきな勉強への情熱を見ているうちにもう一度勉強したいと思い始め、昼は東京理科大で勉強し、夜は教員として働き、教務が終わると研究室に行き研究をするという生活をします。
 もちろん学納金もかかりますし、本にお金もかかりますからカツカツです。
 お給料をもらうと通学と通勤の定期券を買って、即席ラーメン一箱買ってそれで生活はしのいでいたそうです。

 そんな最中に大村先生にお見合いの話が舞い込みます。当時新潟の糸魚川でデパートを経営していた家のお嬢さん、文子さんです。
 お見合いで一気に大村先生の人柄・・・いえ才能でしょうね、それに惚れ込んだ文子さんは彼と結婚したいと思うもお父さんやお兄さんは「文子が苦労するのは目に見えている」と大反対。
 それでもと粘る文子さんをみて彼女のお母さんがお父さんに土下座をして「結婚させてください」と頼み込んだそうです。
 さすがに妻の土下座には適わず、お父さんとお兄さんも許しを得て結婚をするのです。

 この時1963年、昭和38年に大村先生はこの年に東京理科大学修士課程を修了します。まだこの時には博士号をとっておらず、なかなか厳しい二人の船出となります。この時大村先生は28才でした。

 その後、山梨大学に助手として務めるも研究には本などのお金がかかります。生活がカツカツなのに変わりありません。
 文子さんは結婚当初からそろばん塾や学習塾の先生をして生活を支えます。当時は未婚の女性の仕事はあっても既婚の女性ができる仕事はとても少ない時代です。そんな中でそろばんや学習塾の仕事をするというのは女性でもできますが代わりになかなか難易度が高いことです。そうとう文子さんが知性あふれる女性だったとうかがえます。

 しかし研究費や本代でやはり生活費は足りず何度も実家にお金を借りに来ることに。
 これはなかなか年頃の女性としては辛いことです。親や兄としては心配もあってチクリと言ってしまうことも。

 しかし彼女は「ノーベル賞を取るまでは死ぬ気で頑張る」とカラリと答えたそうです。

 その後山梨大学から北里研究所に活躍の場を変えた大村先生は1968年に33才で薬学博士、1970年に35才の時理学博士を取得します。
 そして1971年、36才の時アメリカに留学を果たします。
 アメリカでの研究環境はとても良く、このままアメリカでの研究を続けたいと思うほどでしたが、2年ほどで恩師が退官するため北里研究所から急遽帰国するように言われます。

 しかも帰っても研究環境は悪くなる事は明白、そのうえ研究資金がないとも言われ、このまま帰国しては研究資金が尽きるのは目に見えています。そこで考えついたのが先ほどの「大村メソッド」です。これでメルク社と契約を結び研究資金を調達して帰ってくるのです。
 そして北里研究所での研究によりノーベル賞受賞となった「エバーメクチン」と「イベルメクチン」を発見します。
 当初は動物用のフェラリアなどの抗寄生虫薬として売られましたが、後に人間にも安全なことが証明されました。これにより莫大な特許料が大村博士は得ることになりますがそれを彼はおしげもなく研究所につぎ込みます。

 そして1975年、40才の時には北里大学薬学部教授に就任します。

 しかし古巣である北里研究所は学校法人北里学園を作ったことで大赤字。母体である北里研究所は倒産寸前まで追い込まれます。この北里研究所の再生が次の大村博士の大事業となります。
 教授職はたった9年の1984年に辞職し、次は北里研究所の理事兼副所長となり今度は北里研究所自体の立て直しをすることになります。
 

 また大学時代から大村博士が柱としたのは「質の良い研究者を育成、そして研究アイデアの着想・考案、そのための資金の確保、そしてそこから得られた成果を社会に還元すること」でした。
 
 しかし言うは簡単、行うは難しです。

 そこで彼が行ったのは海外から優れた研究者にセミナーに来てもらい、若い研究者に話してもらうことでした。そしてセミナー後にはホームパーティを行い、様々な研究者たちも招き親交を深めたのです。そしてその際は奥様の手料理でもてなしたそう。
 そのセミナーの数は30年で500回。一回のセミナーが一回だけでなく複数回やったと思いますがこの数はすごいです。
 そう考えるとセミナー後のホームパーティは週に一度や二度はやっているでしょう。いやはや主婦に取っては狂気じみている夫の凶行としか言えません。

 外でやってくれ、と言いたくなるでしょう。しかし外でやるにはお金がかかります。なにせセミナーの三分の一はノーベル賞受賞者。その格にあわせたパーティを何度もやることは当時の北里研究所では難しいし、まだお金のない若い研究者には気軽に来ることはできません。
 しかし主催者の家で行うホームパーティならばセミナー講師を務めてくださった先生方に失礼ではありません。むしろ親しみを持ってくれたと喜んでいただけます。
 だからこそ文子さんはその負担を引き受けたのです。

 それにより北里研究所と北里大学は多くの著名の研究者との結びつきを強くし、他の大学や研究所と比較しても負けない多くの優秀な博士と質の良い研究者を生んだのです。

 その上文子さんは経営のプロを大村博士に紹介します。
 それにより大村博士は経営学と不動産学を研究、北里研究所の立て直しに成功するのです。
 その間には新総合病院を新設を予定するも地元の医師会の反対にあい工事は難航することに。しかしそれも署名運動を始めたのも文子さんのおかげもありなんとか決着、北里研究所メディカルセンター(現北里大学メディカルセンター)が建設されます。
 おかげで赤字経営で破綻まっしぐらだった北里研究所は黒字経営に、そして赤字だから統合できなかった北里大学とのやっとの統合を果たすまでになったのです。

 いやはや、文子さんの活躍は「北里研究所存続の母」と言っても過言はないと思います。

 そうやって北里研究所を建て直す中でも大村博士の研究は止まりません。
 一つの薬を実用化するだけでも難行なのに大村博士をトップとした大村研究室では25種類の試薬、医薬品が実用化されたのです。その特許料は莫大なものになります。

 そしてその特許料は自分のためではなく、北里研究所にはもちろん、研究や後進のためにおしみなく使うのもまた大村博士と文子さんらしいところです。

 有名なのは1987年にWHOの呼びかけに応じメルク社は「メクチザン」の無料供給を開始したことです。
 メクチザンが特効的に聞く糸状虫症は発症すると失明をする病気です。失明してしまうと農業もできません。しかも西アフリカ地域の風土病なので経済性がなく、地域住人にはこの薬を買うお金がないのです。
 そこでWHOはこの地域に無料供給できないかとメルク社に打診し、メルク社は承諾。
 これは無料なので大村博士にはお金が入りません。
 しかしそれを大村博士は喜びました。自分はまだ北里研究所再建中で苦しい時代にも関わらずです。
 これにより3億人の人が失明の危機から脱出することができ、同時に発売元のメルク社の社会的地位を一気に高めたのです。
 そしてそれにより2025年にはこの糸状虫症は根絶されると言われています。

 また美術収集も大村博士らしいお金の使い方です。
 大村博士にとって芸術とは心を癒やす物ではなく魂自体を癒やすもっと大事なものであると考えており、ビクトル・フランクルの「芸術は人の魂を救い、生きる力を与える者だ」という言葉の通り、現在も北里大学メディカルセンターでは多くの絵画が飾られています。
 
 その深い美術の知識があったことにより女子美術大学の理事長を務め、女性の芸術家の支援のために基金を作り、女子美美術奨励賞を作りました。
 基金の名前は妻の名から取り大村文子基金と名づけられました。

 そしてそのことにより「近代から現代の女性の芸術家の作品が一度に見れる美術館が必要である」と考え、故郷の地に韮崎大村美術館を設立します。現在は韮崎市が管理していますが近くにある日帰り温泉施設やおそば屋さんも大村博士が建てたそうです。
 それは故郷への恩返しの意味もあったそうです。

 こういうことにお金を使うというのは簡単なようで難しいことです。なにせ家族がいますから。
 家族が「そんなことにお金をつかうなんて!」と言って反対をされたら、何回かはできてもそうそう思い切った使い方はできないでしょう。

 しかし文子さんはそんな大村博士を尊敬し、応援していました。
 自分たちの生活は質素でとてもそんな大金持ちがするような生活ではないとも言われるくらいの、質素ながらも品の良い、まさしく大村夫妻らしい知性と愛があふれた生活だったとお聞きします。

 2015年、80才の大村博士がノーベル賞受賞の報を聞いたとき真っ先に心の中で文子さんに報告をなさったそうです。

 残念ながらこの稀代の賢母は受賞の16年前に乳がんにより他界されていました。
 最後まで気丈であり、そして夫がノーベル賞を取ることを疑わない、知性にあふれながらも傲慢ではない、愛情深い、素晴らしい女性でした。

 地方出身の女性が「この人はノーベル賞を取る人だから」といってその男性を信頼し、尊敬し結婚を決断する。

 普通に聞けば夢物語もいい加減にしろと言うことでしょう。
 しかし彼女は伴侶となる人の努力と才能を見抜き、自分の努力と才能でサポートに周り成し遂げたのです。
 そしてそれは北里研究所という日本有数の研究所の危機まで救ったのです。
 

 またここでもう一つお二人は伝説を作ったのです。

 今まで北里研究所、北里大学ではノーベル賞の受賞者はいなかったのです。
 創設者、北里柴三郎もノーベル賞の候補にあがるも様々な問題で受賞がされませんでした。

 大村智博士のノーベル賞受賞はまさしく北里研究所の悲願の達成でもあったのです。

 大村博士はノーベル賞受賞の際にも文子さんの写真を携えたといいます。
 数々の伝説的な事を成し遂げたご夫婦の根源にはいつも「ノーベル賞」が関わっていました。
 きっと天国で文子さんは自慢したにちがいありません。
「ほらね!私が言ったとおりでしょ?あの人はノーベル賞を取る人だって。」と・・・



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