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伊勢金比羅参宮日記(13)

3月6日(38日目) 金比羅


 雨天。高松を出発し、馬を取り瀧の宮(香川県綾歌郡綾南町大字滝宮)に着く。

 この間5里で平坦である。瀧の宮の「あわや重五郎」にて茶漬を食べる。この場所は菅公(菅原道真)の治めていたところの旧跡であり、天神の宮(滝宮天満宮)がある。大社である。瀧の宮(滝宮神社:牛頭天王社)は、牛頭天王を祀っており、側には滝がある。


 ここから金比羅まで2里。同じく平坦である。

 金比羅(金刀比羅宮)は不動愛染明王の類いである。秘仏でありご神体を知るものはない。


 松尾寺という真言宗のお寺の守護神として金比羅様を祀っていました。金比羅様とは元々薬師如来の十二神将の筆頭、宮比羅大将(クンビーラ)というワニの神様。現在では、金比羅宮では大物主神と崇徳天皇を祀っているということになっている。

 御本坊は象頭山金光院松尾寺で、真言宗九條様御引受三百三十石ご朱印がある。御領は3ヶ村ある。苗田村、榎井村、四条村である。10月10日は御祭礼。公儀より御使者が下る。男女13歳までのうち、斉戒沐浴(飲食、動作を慎んで、心身を清めるため、沐浴をする)して出る。これを頭人(とうにん)という。

 ここは食べるための道具が11日の夜にどこかへ消えてしまうという。不思議なことである。それと箸蔵大権現(はしかくしだいごんげん)とを附会(こじつけて)して、奥の院と称したため、箸蔵大権現は崇徳院(崇徳天皇)の霊を祭って1里ほど南の山中にある。

 松尾寺役人は300人ほどいて、みな扶持取り(米で給与された俸禄を受け取る者)である。


 金比羅は思いの他よいところである。妓婦あり。四国で一か所であるため、300人あまりいる。

 御山の中は桜でいっぱいである。そのうち欝金(ウッコン=欝金香ウッコンコウ、ウコンのように黄色のことか?現在のチューリップの意味もあり)の桜が半分である。


 お守りは1厘2文半、開帳6厘である。本開帳は12厘。まず御山に登る時、御本坊玄関御守処という額があるところで御守を受けて、その後、本社御番所へ願い開帳をうけること。即、金幣を出し戴せらるなり。

 御開帳は毎日七つ時(午後4時)だけである。

 下りて表箱、油紙を商う家がある。その場所で箱入りにすること。ある船中で身代わりになってくれて、不思議に命拾いしたということで、納めてある碇(イカリ)があった。一目見て由来を聞いてみるといい。

 堂塔など見どころが多い。案内にいろいろ聞いてみること。

3月7日(39日目) 屏風ヶ浦善通寺


 曇天。4つ時(午前10時)から快晴。

 今朝、金比羅参詣済ませる。これより屏風ヶ浦善通寺を参詣。ここは弘法大師が生まれたところである。伽藍は焼失。

 そこから丸亀まで四つ時(午前10時)に到着。八島屋で食事をした。この家から下村(倉敷市児島下の町)へ出帆。清和の天気であったが、1里あまり乗り出したところで、風が悪くなり大難儀になってしまい、夜になりしばらく4里ほど行き、余島(与島)という島に到着し、そこへ1泊する。誠に飢えを凌ぐだけであり、言葉ではとても表せない次第であった。余島には80軒ほどの家がある。家の作りは宜しく、天領(幕府直轄地:織田信長は、塩飽水軍680人を人名に取り立てて、塩飽七島を天領として1500石の扶持を与えた)である。


3月8日(40日目) 吉備津宮内


 快晴、5つ時(午前8時)出船。良い風が吹き、4つ時(午前10時)下村着船。

 下村の花屋菊兵衛という家で酒肴を食べて、瑜伽山を目指す。

 ここから30丁の登り(格別難所はない)、途中の百姓家は皆小倉を商うための物置きがある。随分と安い。安心して買うこと。

 ここから瑜伽大権現、ここは霊地である。門前に茶店が多い。

 ここから半道余り下りで吉備津宮まで六里の間、平坦である。2里半ほど行く。

 あまき(倉敷市藤戸町天城)1里半早島(畳表出来るなり)、半里又ハセ(庭瀬)どちらも良いところである。

 吉備津宮内というところは妓婦があり良いところである。夕刻に到着。

 樽清という家に宿泊する。あまり良い宿ではない。



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