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言葉が違うとニュアンスも違う

日本語を話す人は、殆どが日本国籍を持つ人だ。
日本に居住する外国人や外国語として日本語を勉強した人も日本語を話すが、これは極めて特殊な例である。

日本語は世界で一番「ハイコンテクスト」な言語と言われている。
「コンテクスト」とは「文脈」と訳され、人とのコミュニケーションや意思の疎通を図るときに土台となる言語や価値観がどれだけ含まれているかを表す。

ハイコンテクストな言語とは、コンテクストが高い言語を意味し、文脈に強く依存したコミュニケーションを意味し、ほのめかしやはっきりと口にしないコミュニケーションスタイルのことを指す。

だからハイコンテクストな日本語を使用する日本人は「阿吽(あうん)の呼吸」と言う言葉が代表するように、コミュニケーションの場において、言葉を大切に扱わない傾向がある。

むしろ、何も言わないところに、美意識すら持つ。
その極端な例が俳句で、17文字で季節の情感などを写し取ることに文学を見出している。

これはこれで貴重だが、外国人とのコミュニケーションにおいてはこの考え方について考えさせられるシーンもしばしば生じる。

イスラエルの支配下にあったパレスチナを解放する為に尽力したヤセル・アラファトは当時、1974年に国連総会にオブザーバーとして参加し、国連演説で歴史的名演説「銃とオリーブ」をした。

アラファトは総会の出席者を前に両こぶしを握り締めて「私はこの場所に平和の象徴であるオリーブと闘争の象徴である拳銃を持ってきた。」と語り、「オリーブの枝が私の手から落ちないようにして欲しい」と繰り返した。

この演説の裏には、スウェーデンの外務大臣とその側近のグループによる入念な推敲作業があった。

アラファト氏の元々の草稿は、いかにもアラブの文化的で、そのまま英語に直してもアメリカや世界の主要国に通じるような内容ではなかった。

彼らはわずか2ページの演説草稿を、24時間、慎重に言葉を確認しながら不眠不休でアラファト氏と一字一句言葉選びをして練り上げた。

言葉というものは、単なるコミュニケーションツールではなく、人間を社会化させていくツールで社会習慣そのものだ。人々の永い歴史や文化を背負っている。

言語が異なるということは、生活習慣や価値観あるいは、思考や感情といった諸々のものが異なるということで、異なる言語で物事を伝えようとしてもうまく伝わらない。

日本人がいくら英語を学んでも、それを母国語としている人々のレベルに達するのはおそらく不可能だ。

日本人であっても知らない漢字や言葉が数多く存在するので一生かかっても日本語をマスターすることは出来ない。

外国語をいかに巧みに操ったとしても、所詮は人為的に学習した外国語にすぎないので、発想の仕方やものの感じ方まで習得することは難しい。

共に母国語を英語とする英国と米国との間でさえ両国の英語(米語)の微妙なニュアンスの違いが時には、誤解を招く。

発想と言語習慣の異なる者同士が理解しあうには言葉使いに特に慎重にならなければならない。

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