舌は成長する

料理の稿です。
誰しも、好きな食べ物というのはあるかと思います。
しかしこれが、年を経るにつれて好みが変わっていく。そのような経験をされる方もこれまた多い。
よく聞くところでは、年をとって肉の脂分が駄目になり、霜降りやバラより赤身が良くなった、とか。
あるいは肉よりも魚を欲すようになった、とか。

そういう、ネガティブな変化、やむを得ない老化による変化もあれば、そういうのとは別に、自分のこれまでのさまざまな食の経験を経て、嫌いだった食べ物が、好物にまでのし上がる。
これはけっこう、年を取るのも悪くないな、と思える経験の一つです。

鬱ごはん、という、施川ユウキという漫画家さんの作品がありまして。
僕はこの作品が大好きなのですが、主人公鬱野の、肝心の食の嗜好には全く共感できません。
それは、鬱野くんがまだ若く、幼い味覚しか持ってないからです。
(ただ彼も5巻現在、三十代となり、食事も少しおっさんな傾向も出、俄然渋めの趣味になりだしましたが)

彼は言います。
「調理過程でやたら食べ物に触る料理が嫌いだ」(例えば餃子とか握り寿司とか。彼は回転寿司で機械が寿司を握ってるとこしか行かない、と言ってました。それが今や手握りの寿司屋にも行ってます。これは人間的成長です)とか。
「誰かと食べる餃子より、一人で舐める飴のほうが好きだ」とか。
「僕はカレーに思い入れがない。僕にとってカレーはただのカレーだ」とか。

実は、僕はこの全てにわりと過去の経験において共感でき、かつ今となっては全く共感出来なくなっております。

彼と自分の共通項。
それは、成長の過程でだんだんと、親しい人間という存在と距離をおいていった、ということではないか、と思うのです。

実は食事、というのは、人と人との繋がりを否応なく感じさせる行為の連続なのです。本来は。
しかし、自分のように一人暮らし、それも大っぴらにしたくないようなフリーターとかパートとか、非正規とか。
そういう仕事をしてるゆえに人とあえて距離をおきたくなった結果親しい人間がまるごと自分の周りからいなくなった、そういうタイプの人間にとっては、食事は個食が基本なのです。
そうなると。
自分の個としての独り。
この独特の潔癖を、発するようになります。
人の手が加わった食べ物を、なんとなく毛嫌いするとか。
人情あふれる定食屋のおばちゃんに、顔を覚えられると行きたくなくなるとか。
そういう病です。

ですがね。
さすがに四十過ぎたあたりで、そういうこだわりすらどうでもよくなります。
そして自分の場合、否が応でも他人、それも老齢の他人と触れ合わずにはいられないという、介護という仕事を選んだ結果。
そして、四十をすぎて親の介護のために実家に帰り親と再び食卓を囲むという経験をせざるをえなかった結果。

個としての「独り」という潔癖は、また再び手放さなければならない贅沢となりました。
そして、そうなると。
田舎に帰り、疎遠だったかつての友人ともそれなりの交流が出来たり、あるいは親の飯をまた食べたり。老齢のお宅からお裾分けなどいただいたり(本当はいけませんがね)。
そういう経験を経て、また再び食の好みはアップグレード、というか、アウフヘーベンというか。された、というのが現状です。

人の手がベタベタと加わった料理が、妙に愛おしくなったり。
人が時間をかけて作ってくれたものに、素直に感謝と称賛を送れるようになったり。
自分でも、コンビニや店屋物よりは、自分で作ったごはんの方に価値をおくようになったり。

そういう変化が起きました。

それによって今度は、具体的な「味覚」の変化も自覚します。

子供の頃嫌いで食べられなかったトマトが、今では必ず食卓になんらかの形で出現するほど大好きになったり(実際、今日の食事はチキンのトマト煮込みと、トマトとレタスのサラダでした)。

すっぱいものが嫌いでまったく受け付けなかったたのに、今自宅にはポン酢と米酢を切らすことがないように注意するまでになったり。

逆に、昔狂ったように食べてたカレーがあまり好きではなくなったり。

それでいて、クミン、ナツメグ、オレガノ、バジルなどのスパイスの香りは好きではなかったのに、今では全種台所に取り揃えてたり。

変われば変わるものです。

嫌な変化ではない。
年を取ることは、そんなに悪いことでもない。
孤独であることも、人と繋がりをもつことも、どちらも尊くあるべきで、どちらかを軽視し嫌悪することは必要ない。

そう思える。それこそが老いる喜びと。
そのようなことを、最近とみに感じるのです。

鬱野くんも、いずれそのように変化することでしょう。
遠ざけていた人を、いつか受け入れるようになる。
人は、そういうふうに出来ているのかもしれません。

ま、結婚はついぞ、できませんでしたが。
そのことを後悔しても始まらない。私はかつて、そして今も孤独であることに必要を感じている。意識している。
それで、十分生活を享受できている。
幸せだ、と思うべきでしょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?