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暮瀬堂日記〜西脇順三郎「旅人かへらず」

 朝、洗濯物を干した。雨が落ちて来ないうちに帰って来れればいいなあ、と思って仕事をしていたが、なんとか持ちこたえてくれた。
 帰宅後、たまには買物に行きたいな、と言う家人を車にのせて、川崎出来野のマルエツに赴く。土曜の夕刻なので人出が多かった。いつになったらマスクを外せるのだろうか。色々な意味で、息苦しい世の中になってしまった。
 家人を先に降ろし、車を置いて家に戻ると、
「プル!ただいま!って言っちゃった…」
 と苦笑いしていた。
 だんだん実感して来るのだろうなあ、喪失感と言うものを。
「プル、天国でお友達、いっぱいつくってね」
 そう呟く家人の後ろ姿が淋しかった。
 書架より、「旅人かへらず」を手に取り、しばし眺めていた。

   ニ
  窓に
  うす明りのつく
  人の世の淋しき

   七
  りんだうの咲く家の
  窓から首を出して
  まゆをひそめた女房の
  何事か思ひに沈む
  欅の葉の散つてくる小路の
  奥に住める
  ひとの淋しき

   九〇
  渡し場に
  しやがむ女の
  淋Lき

   一〇三
  庭の
  蟬殻の
  夏の世の殻の朝
  悲し

   一六七
  山から下り
  渓流をわたり
  村に近づいた頃
  路の曲り角に
  春かしら今頃
  白つつじの大木に
  花の満開
  折り取つてみれば
  こほつた雪であつた
  これはうつつの夢
  詩人の夢ではない
  夢の中でも
  季節が気にかかる
  幻影の人の淋しき

   一六八
  永劫の根に触れ
  心の鶉の鳴く
  野ばらの乱れ咲く野末
  砧の音する村
  樵路の横ぎる里
  白壁のくづるる町を過ぎ
  路傍の寺に立寄り
  曼陀羅の織物を拝み
  枯れ枝の山のくずれを越え
  水茎の長く映る渡しをわたり
  草の実のさがる藪を通り
  幻影の人は去る
  永劫の旅人は帰らず

※しゃがむ女の淋しき……先年亡くなった詩人藤富保男の弟子であった家人の話によると、藤富先生が話してくれたこととして次のように教えてくれた。
 ーー西脇順三郎の詩が難解なので西脇教室と言うのがあって、カミングスの訳者である藤富先生も参加していた。同席していた大岡信が、「桟橋でおしっこをしている女を見た時に出来た、と西脇さんが言っていた」と言うと、鍵谷 幸信が「先生はそんな下品なことを書くはずはない」と反論したが、「いや、あの人はそういうことを書く人だ」と答えたと言う。勉強会での結論は、「西脇順三郎は旅を好み、旅先で色々なものに恋をした。それを、分からないように表現したのだろう」と話し合ったとのことである。

(旧暦四月廾九日 芒種 梅子黃ばむ候)

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