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Gift 15 〜 私は形のある「身体」か、それとも形のない「ハート」か?

◎ なぜ「身体が好き」と言われてもあまり嬉しくないのか?

恋人やパートナーに「私のどこが好きか?」と聞いたとします。その答えが「そうね、身体からだかなぁ」だとしたらどう思うかを想像してください。

それほどわるい気はしないという人もいるでしょう。とくに、肌の手入れやシェイプアップにはげんでいれば、日ごろの努力が報われたと喜べるかもしれません。

でも、多くの人は「え、そうなの?」と驚いたり照れたりしたあと、ふと我に返って「つーか、そこかい!」とツッコミを入れたくなると思います。

もし「身体」と言われるのが不本意だとしたら、私たちはどのような答えを期待しているのでしょうか。身体ではない何を好きになってくれたら安心できるのでしょうか。

頭のよさや仕事ぶり、身につけている能力や技術、あるいはそれによって得た地位や名声や経済力はどうでしょう。少しは注目してほしいものや、認めてほしいものに近づいた感じがします。

でも、まだ若干のザラつきは残ります。なぜならば、いま挙げた魅力はどれも「私が動くことによって生まれる結果」にほかならないからです。

恋人やパートナーが自分のそこだけに興味をもっているとしたら、タレントとプロダクションの関係とほとんど変わりません。華々しく活躍しているあいだは宝物のように大切にされても、人気に陰りが見えてくれば、次第に扱いも雑になっていくでしょう。そのたびに「いつか契約を打ち切られる日がくるんじゃないか」という懸念が頭をよぎります。

しかも、よく考えてみると「動く」とはすなわち「身体を使うこと」だとわかります。なんのことはない、それによってもたらされる結果もまた、身体の魅力の一部か、その延長や拡大版に過ぎないということです。

とても残念なことに、身体の美しさも機能もけっして永くは続きません。そして、私たちはこの悲しい現実を熟知しています。恋人やパートナーが、そのはかないものにかれて一緒にいるとわかれば、当然「ということは、歳をとって魅力や実力が損なわれたら、この人の愛も冷めてしまうのか?」と不安になるでしょう。

そもそも、私はこの話をあえてありえない前提から始めました。あなたも気づいているとおり「私のどこが好きか?」と聞かれて、のんきに「からだ!」と返す人はまずいません。それはほかでもない、その発言はたいてい失礼で、相手を不快にするという暗黙の了解があるからだと思います。

では、私たちは何を暗に察しているのでしょう。おそらく、これがそのまま先の「身体ではない何を好きになってくれたら安心できるか?」の答えになります。

それは、次のような感覚ではないでしょうか。

「私の中には永遠に変わらないものがある。その不変なものを愛してほしい」

すでに見てきたとおり、形のある身体はいつかかならず疲労し、色せ、衰え、朽ちていきます。だとしたら「永遠に変わらないもの」とは形がなく、目に見えない何かであるはずです。

いったい、それは何でしょう。

◎ 心をまっさらにして「形のない自分」に出会い直す

じつは、洋の東西を問わず、時代の垣根も超えて、人は身体ではない「形のない自分」を、完全には否定せずに暮らしてきました。その定着ぶりは、日常で交わす次のような会話にも表れています。

「この本には作家の魂が込められている」
「彼女の歌にはソウルを感じる」
「彼はその研究に全霊を注いだ」
「先人たちはフロンティアスピリットでこの分野を切り拓いた」

ほかでもない、愛してほしい不変なものとは、ここに登場する「魂」や「ソウル」「霊」「スピリット」に近いのではないかと私は考えます。

もとより、私たちは自分の身体をそれほど好きではありません。まったくもって自信がない人や、むしろ嫌いという人もいるでしょう。

だとしたら、そのような引け目を感じるものを恋愛や結婚の根拠にできるとは思えません。少なくとも、恋人やパートナーだけには「見た目がきっかけでもかまわない。でも、そこではない私の本質をしっかりと見てほしい」と望むはずです。

反対に「魂の伴侶」や「ソウルメイト」と聞くだけで、多くの人が永遠の強い絆をイメージします。相手に「あなたがその人だ」と言われれば、お世辞や甘言かんげんとわかっていても、自然と心がときめいてしまうでしょう。

やはり「魂や霊のようなもの」は、先の「身体ではない何を好きになってくれたら安心できるか?」の答えとして、かなり的を射ていると思うのです。

ただ「愛」と同じく、これらの言葉にはさまざまな先入観が伴います。とくに、最近では「怪しい」「うさんくさい」といった負の印象に傾いているようにも見えます。なにより、私自身がそれぞれの意味を完璧には理解していません。

そこで、もう一度、まっさらな心で「形のない自分」と出会い直せるように、本書ではこれを、

「ハート」(Heart)

と呼ぶことにします。

◎ 私たちの中には形のない「ハート」を認識する感性がある

Gift 13では、宇宙の森羅万象を創った「原初の想い」を、

「世界に美と調和をもたらす創造の源であり、けっして分離や分断を生まないという意味で、愛そのものでもある」

と定義しました。

さらに「私たちにも原初の想いと同じ性質と意志がそのまま受け継がれている」とも書きました。

もちろん、前提から結論まですべて私の仮説に過ぎません。そこはしっかりと踏まえたうえで、この「受け継がれたもの」こそが「ハート」の正体と捉えてみます。

つまり、形のない「原初の想い」は自らがもつすべてを、同じく形のないハートに詰め込んで私たちにギフトしてくれたと仮定するのです。

これが私の本質なら、老いはもちろん、先のタレントのたとえのように、人気の絶頂から転げ落ちる心配もせずにすみます。結婚式で曲がりなりにも「一生を添い遂げる」と誓うときのり所としてもわるくないでしょう。

ここで冒頭の問いに戻ります。恋人やパートナーに「私のどこが好きか?」と聞いたとします。その答えが「目に見えないハート」だとしたらどうでしょう。

もし「それなら安心できる」と思うとしたら、形のない自分の存在が証明されなくても、あなたの中にそのような感性があるという事実は確かめられます。

そして、ハートだけでなく、愛や想いや生命など、あらゆる目に見えないものを、私たちはこの「感じる」という方法で認識しているのではないでしょうか。

◎ 身体とハートのどちらが実相で、どちらが幻想か?

こうして「本質」という点に着目しながら自分を探索していくと、最後には次の問いに行き着きます。

「私とは何か?」

すでに見てきたとおり、答えは「身体」と「ハート」の2つに大きく分かれます。

身体、すなわち肉体とその機能だけを「私」とするなら、形のないものはどれも例外なく否定しなければなりません。ハートはもちろん、私がここまで書いてきた愛も想いも創造力も、すべて「脳の働き」や「身体の反応」と解釈しなければつじつまが合わないからです。

反対に、私たちの本質がハートだとしたら「では、この身体は何だ?」という新たな疑問が浮かんできます。

さらに、前話で私は次のように書きました。

「愛そのものである実相の自分に対抗して、その反対の性質をもつ幻想の自分を作り出した」

私たちの本質をめぐる2つの答えが、この文にそのままあてはまるとしたらどうでしょう。

身体とハートのどちらかが「愛そのものである実相」で、もう一方が「その反対の性質をもつ幻想」ということです。

「私の何を好きになってくれたら安心か?」の問いをとおして、両者がもつ性質の一部は明らかになりました。これまでの文脈に照らし合わせると、ハートが「愛そのもの」であるように思えます。でも、そうなると、見たり触ったりできる身体を幻想とみなさなければなりません。

反対に、目に見えないハートが幻想だとしたら、誰も冒頭の「身体かなぁ」に文句を言えなくなります。それ以外に愛せるものなど、どこにも「無い」からです。

こちらはこちらで、私たちの感覚からかけ離れているし、簡単には受け入れられない感じがします。

やはり「身体とハート」「実相と幻想」を矛盾なくすっきりと組み合わせるには、もう少しこの探索を続ける必要がありそうです。

そこで、両者の違いをもっと明確にするために、次は、

「それぞれの私が、自分をどのように認識し、どのような考えや信念や価値観をもって生きることになるか?」

の答えを探ります。

(次章に続く……)

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