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【連載小説】無限夜行 一.「黒い列車」

太陽が沈み、空が薄桃色と紫色に混ざり合う時にだけ、僕はあの不思議な列車の事を思い出す事が出来る。

 纏わりつくような夏の風と草の匂い。暗闇の川から舞い上がる蛍達の光の渦。どこまでも続く、誰もいない路地。瞼を閉じるとそれらは心のどこか遠いところから浮かび出る。

 そして、金属と金属の擦れる音を夜空いっぱいに響かせながら、あの黒い蛇のような列車がやってくる。

 ああ、あの列車は今、どんな夜を走り抜けているのだろう________



水蒸気の中を歩いているような湿気の多い夏の日で、僕は十歳だった。

 地面からは大量の靴音とトランクを引く音、天井からは新幹線案内のアナウンスと真上を走る列車の振動。何層にも重なり合う複雑な音の洪水の中、僕は立っていた。目の前を右へ左へと忙しなく通り過ぎる大人たちの腰や足の隙間から「山陰・東海道新幹線」と書かれた青地に白い新幹線の絵のマークが見え隠れする。遠くの立ち食い蕎麦屋から、出汁と醤油の匂いが時折、ほんのりと漂った。

「悠太、何突っ立ってるの!」洪水の向こうから、苛立った高い声がした。母の声だ。

「早くこっちに来なさい、もう時間が無いんだから!」

 新幹線改札の前に、パステルブルーのシャツに細身の白いジーンズを履いた母が立っていた。右肩に子供用のリュックサックを提げ、左手を振り上げて必死に僕を呼び続けている。

「まったくあんたは危なっかしいんだから。そんなだからいつも迷子になるんでしょう? 分かってる? ほら、ちゃんと自分でリュック背負いなさい」

 まくし立てるように喋ると、母はリュックサックを自分の肩から下ろし、僕の背中に背負わせた。ぱんぱんに物が詰まったリュックサックは具を入れすぎた握り飯のようで、母が手を離すと肩にずっしりとした重さを感じた。

「いい? これが切符。絶対に失くしたら駄目よ」

 母は細長い切符をハンドバックから取り出すと、ウェーブがかった長い髪をかき上げながら中腰になり、僕に目線を合わせた。

「改札を通ったらすぐにお財布にしまいなさい。これが無いとおじいちゃん家に行けないんだからね。」

「ねえお母さん」僕は突然、悪戯っぽく笑ってみせた。

「これ、電車の中で失くしたらどうなっちゃうのかな」

「…は?」

「だから、電車に乗ってから切符を失くすの。そしたらずうっと電車から降りられないのかなって」

 母は大きくため息をつき、眉間に皺を寄せた。

「その時は駅員さんに相談して、家かおじいちゃんの所に連絡しなさい。そしたら降ろしてくれるから。…ねえ、あんたもう4年生でしょう? そういう冗談はやめてくれる?」

 心底うんざりした声でそう言うと、僕の手に切符を握らせる。母の手は熱く、汗で湿っていた。

「お母さん、この切符二枚あるよ。」

「そうよ。こっちが乗車券で、そっちが特急券。って言っても分かんないわよね。とにかく一人二枚必要だっていう事」

「ふーん。なんだ。兄ちゃんの分かと思った」

 そうつぶやいて顔を上げると、改札の向こうに退屈そうに待つ兄の姿が見えたので、僕は母の説明に納得する。

「悠太。あんまりお母さんを不安にさせないで。」先ほどまで怒鳴っていた母は急に細く、苦しそうな声を出す。

「…何度も言っているけどね。あんたには…」

 その言い出しに嫌な予感がしたので、僕は強引に母を振り切る。

「分かったよお母さん。大丈夫。もう行くね。」

 そう言い残して軽く手を振り、改札の洪水へ飛び込んだ。

 僕を呼ぶ母の声は、波の彼方へと遠ざかって行った。

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兄は右手をシャツのポケットに突っ込み、全面を観光地の広告で包まれた柱に寄りかかっていた。荷物である黒いボストンバッグは地面に置かれ、足で軽く蹴られていた。

「遅かったな」

「ごめん。お母さん、うるさいんだもん」

 兄は苦笑いすると、荷物を軽々しく持ち上げて肩に掛ける。随分と量が少なく、これから一週間以上外泊するとは思えない軽装だった。それに対してこの重さは何だ、と僕は背中に圧し掛かる冗談のような重さに悪態をつく。

 荷物がこんな有様になったのは、母の心配性によるものだった。雨が降った時の為の雨合羽と折りたたみ傘、酔い止め薬に虫刺され薬、保険証のコピー、懐中電灯。夏休みの宿題の為にと国語辞典まで持たされそうになった時はさすがにどうしようかと思ったが、それは何とか免れることが出来た。

 元々口うるさかった母だが、ここ一年くらいは特に著しい。僕のちょっとした言動にいちち腹を立て、天井に突き刺さるような声で怒鳴り散らし、顔を歪めて舌打ちをする。そして、

溜息をついてどこかに行ってしまうのがパターンだ。そして酒と煙草の匂いを撒き散らしながら深夜遅く帰ってくる。僕はその音に起こされるが、絡まれると面倒なので必死で寝たふりをするのだった。

 だが、そのように母が遅くまで外出し、尚且つ父の帰りも遅い時は僕達兄弟が遊ぶには最も自由な時間でもあった。

 母は兄の事をあまり好いていない。僕と正反対に、完全放置の扱いで会話している姿も見かけなかった。おそらく、母は兄の事が理解できないのだろう。兄は僕と二つしか離れていないが、大人顔負けの落ち着きを持っていて、同年代の子供達とはかけ離れた雰囲気を漂わせていた。それでいて突然子供らしい無邪気さと意地悪さをふと覗かせる。きっと、母には思考回路が読めないのだろう。

 だから母は、僕が兄と遊ぶのを嫌がる。兄に対する色々な嘘を呪いのように僕に吹き込む。僕が兄のようになってしまうのを恐れている。僕だけは自分の子供であり続けて欲しいのだ。

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「走るぞ、悠太」

 兄は僕の手を掴み、一気に走り出した。重力から開放されたかの如く軽やかに、冷たいタイル貼りの地面を蹴った。

 目まぐるしく変わる電光掲示板も、行き交う人々の波も、甘い香りで誘惑する土産物屋もすべてが万華鏡のようにキラキラと輝きながら前から後ろへと通り過ぎていった。すれ違う大人たちの中には、僕らの事を呆れた目で見る人もいる。でもそんな事は気にならなかった。僕らは幾多の目線を浴びながら、風のように構内を駆け抜けた。

「ねえ兄ちゃん」

僕が呼びかけると、走りながら兄は軽くこちらに顔を向け、返事をした。

「もし電車に乗ってる時に切符を失くしちゃったらさ、どうなると思う?」

「そうだな」兄は不敵に微笑む。

「まず、電車から降りられなくなるだろうな」

「やっぱり?」

「そう。それから電車の中で暮らしながら旅をするんだ。気の遠くなるほど遠く、長い旅だぞ」

「おじいちゃん家よりも?」

「当然だよ。海も山も越える。地球の裏側にだって行けるんだ。腹が減ったら窓を開けて、木や畑から果物を取る」

「お菓子はどうしよう」

「それはお菓子の生る木を探さないとな。地球の裏側に行けば生えてるさ」

「楽しそうだね」

「降りられないけどな」

 僕達兄弟は笑い合いながら階段を駆け上る。兄はいつも、僕の小さな想像力を何十倍にも膨らませてくれた。兄の言葉は魔法のようで、世界を七色に輝かせるのだ。

 僕達は毎晩両親からうまく隠れて、想像の世界の話で盛り上がった。でも今は誰にも怒られずに兄と話が出来る。僕にとってそれは幸せな事だった。

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階段を上りきると強い西日がいきなり目に差し込んできた。駅に着いた時よりも少し日が落ちている。

 プラットフォームの柱や案内板は逆光で黒く染まり、強いコントラストを生み出す。湿気を多く含んだ、不純物だらけの都会の風が体に纏わりついた。

 走っていた足を止めると、溜まっていた汗が一気に吹き出した。髪の生え際が湿って熱くなる。僕は思わずTシャツの裾を捲り上げて顔を拭った。

 呼吸がようやく落ち着き、辺りを見渡す。曇り気味の空は異様なほどに鮮やかな桃色だった。風が無く、どろりと篭った空気。時の流れを感じさせない、不思議な空気感だった。

 向こうの線路を走る電車の音と、ホームを行き交う人々のざわめきが、時間が流れている事を思い出させてくれた。

 夏休みの始めなだけあって、ホームには親子連れや学生の集団が多く賑わっていた。僕と同じくらいの子供達が、千葉の有名な遊園地の大きな袋を持って楽しそうに前を通過する。海外旅行と思われる、大きなトランクを引く人もいた。高齢の女性の集団は売店で買ったパンや菓子を頬張りながら引っ切り無しに話し続け、ビジネスマン風の男はノートパソコンを片手に浪々とよく通る声で電話をしていた。

 ホームの人々は皆、思い思いの手段で電車が来るまでの時間を過ごしている。兄はというと、西日を浴びながら線路の向こうをじっと眺めていた。映画のワンカットのような、完成されたシルエットだった。

 僕は重さに耐えかね肩から降ろしたリュックサックのサイドポケットから電車のおもちゃを取り出した。黄色が鮮やかな二両編成で、鉄道模型より簡素な作りではあったが中も細かく作られている。

「それ、持ってきたんだな」

 いつの間にかこっちを向いていた兄が言った。

「うん。おじいちゃん家の廊下で走らせようと思ってさ。兄ちゃんも一緒にやろうよ」

「ああ。長い線路を作ろうな」

 祖父の家には走り回れるくらい長い廊下があるのだ。走らせるといっても、電車が勝手に走ってくれるわけではない。僕が手で転がすのだ。小学四年生の遊びにしては幼稚すぎるものだったが、狭いマンションでは絶対に出来ない事なのでつい楽しくなってしまう。

 ちなみにこの黄色い電車の裏にはスイッチのようなものがあるのだが、入れても車輪は動かない。最初から壊れていたのか、元々こういうものなのかは謎だった。車体の尻部分には鉄道博物館のロゴが印刷されている。うろ覚えだが、数年前に父が博物館に連れて行ってくれた時に買ってもらったものであったと思う。

 プラスチックの電車を珊瑚色の雲にかざしてゆっくりと動かすと、まるでそれは童話に出てくる空飛ぶ鉄道のようだった。先程兄と話した列車の冒険物語を思い返しながら、僕は頭の中に見知らぬ遠い世界を描く。

 その時、ゆっくりと生暖かい風が吹き抜けた。

 妙な気配に、僕は風の吹いた方角を向いた。

 何だろうか。

 あれは、なんだろうか。

 線路の向こう側に、黒い穴が見える。

 風景を穴あけパンチでくり抜いたように不自然な穴。

 僕は黄色いおもちゃを胸に抱え、その正体不明の穴を凝視する。目が離せなかった。

 穴は次第に大きくなってゆく。拡大するブラックホールの様だったそれは、次第に細かいディティールを見せ始め、最終的に列車の形へ変化する。

 しかし、妙な感覚だった。

 目の前に列車として姿を見せたそれは、やはり列車の形に空間を切り抜いた巨大な穴のように感じられた。それは装飾も無ければ光も反射しない漆黒の車体のせいもあったが、列車と列車以外の風景が同じ空間に感じられないという違和感でもあった。

 巨大な闇は徐々に速度を弱め、ゆっくりと金属を擦らせながら停止した。そして深い溜息のような音を立て、扉が開く。扉の先も同じように暗闇が拡がっていた。

「行くぞ。乗り遅れるなよ」

 そう声がして、気がつくと兄が正面に立っていた。黒いシャツを着て黒いボストンバックを下げた兄の姿は暗闇に完全に溶け込んでしまっていたのだ。

 兄は荷物を勢い良く肩に掛けなおすと、迷いの無い足取りで闇に乗り込んでいった。僕は慌てて地面に置いた荷物を背負うと、黄色い電車のおもちゃをしっかりと両手に握り締めて兄の後を追った。

 静かな吐息を立てる黒い物体は妙に有機的で、まるで古代の生き物のように思えた。だとすると、その腹部に入っていく僕達は捕食される小動物なのだろうか。そう考えてしまうくらい、その列車には威圧感があったのだ。


 ホームから足を離して列車に乗り込む時、扉の横に掠れた文字が見えた。しっかりとした書体ではあるが、手書きを思わせる鉄道独特の文字は、その列車の名前のように見えた。

____無限夜行。

 漢字の苦手だった僕には、その意味はよく分らなかった。

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続く

著 宵町めめ(2009年)
note掲載版は、文章を原作版、絵をノベルゲーム版としたものです。

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