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脳内の小説監督から、自立してみようと思った

 僕は文章を書くのが大好きだ。

 でも、僕自身の言葉で語った文章は少ない。

 思ったことを感じたままに書くより、「ここにはこの文章があった方がいい」という感覚で、文を作ることが多かったからだ。

 思い返すと、学生時代、主に書いていたのは小説だった。

 小説は良い。僕は脳内の「小説監督」に言われるがまま、必要な文章素材を組み上げればよかったからだ。

 僕のいう「小説監督」とは、小説のストーリー、カメラの位置やライティング、音響や演出すべてを総括する存在だ。

 小説の中にあるカメラ(視点)をどこに置いて何を見せるか。登場人物はいまこんなことを考えている。次にこういう事件が起こるから、考えていることの中でも特にこっちを強く、観客に印象付けたほうがいいな。
 じゃあ、主人公の気持ちにマッチした音は……よし、このシーンは外で雨が降っていることにしよう。深夜の雨、外で車が濡れた路面を走る音が聞こえる……。そういうシーン書いてよ、くらや君。……みたいな。

 小説を書いているとき、自分の中にポンと出てくる小説監督。僕は彼に言われるがまま、「次にこういうシーン用意して」「初めて外の世界に触れた主人公にはもっと世界が明るく見えるはず、描写厚くして」といった要求に答えていれば、なんだかいい感じの文章が書けたのだ。

 だから、恥ずかしいことに、僕は自分が「文章で表現するのがうまい」人間だと思っていた(ほんとに恥ずかしい)。

 でも、それはあくまで脳内の「小説監督」のアドバイスあってこそだった。小説という分野を外れて、たとえばエッセイという形で文章を描こうとすると、途端に難しく感じる。

 楽しんで映画を作っていたら急にテレビ局のインタビューが来たみたいな感じで、同じ文章のはずなのに、小説とはぜんぜん違った力が必要なのだ。

 和食の料理人が、いくら上手に懐石料理が作れるからといって、フランス料理のデザートは作れないのと一緒だ。

 僕はどうやら、今のところ、文章で自分の気持ちを言い表すのにちょっと苦労するらしいことがわかった。

 そして、そこでまごついて初めて、自分の中から聴こえてくる声が気になりはじめた。

 「役に立つことを書かなきゃ」
 「面白いことを書かなきゃ」
 「で、これは誰の役に立つ文章?」 
 「ペルソナが……起承転結が……」

 出るわ出るわ、僕は文章を書くのに、こんなに自分に制限をかけていたのかと思った。

 そうじゃない。
 文章は、ただ、書きたいから書く。
 自分が好きだから書く。
 それでもいいし、それがいいんだ、となんども自分に言い聞かせた。

 この文章も、一度目は途中で手が止まった。今もすこし迷いながら話をしている。でもこれは、僕が僕の書きたいことを書くための第一歩なんだと思う。

 あとで見返して恥ずかしくなってもいい。いまここで、悩みながら書いている自分がいたということが、きっと大切だと思うから。

 文章がこんなに難しいとは思わなかった。そして、自分がこんなに自分を見ていないことも、今まで気付けなかった。

 やっぱり僕は文章が好きで、文章を書くのが好きな自分でいることを、続けていきたいと思っている。

 明日も書く。きっと明後日も。

 今日はここまで。それじゃあ、また。

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