《日付のある文章》ハイファッションアイテム、それは合羽

2021年5月12日。晴れ少し、曇り。スーパーでドレッシングと食器を洗う洗剤を買う。

元禄二年は西暦でいえば1689年らしい。ということは、1689年5月12日の曾良の頭上は曇りであった。

五月十二日
曇。戸今を立。三リ、雨降出ル。上沼新田町(長根町トモ)三リ、 安久津(松嶋より此処迄両人共ニ歩行。雨強降ル。馬ニ乗)。一リ、加沢。三リ、一ノ関(皆山坂也)。黄昏ニ着。合羽モトヲル也。宿ス。

   曾良『奥の細道随行日記』(リンク)

三リ、三リ、一リ、三リ、とある。つまり、十リ。リは「里」。

「戸今」とは宮城県登米市あたり、らしい。そこから岩手県一関あたりまで歩いた。途中、少し馬に乗った。

宮城県登米市から岩手県一関市までは、東北縦貫自動車道/東北自動車道を経由して、37.6キロメートルとのこと。

一里はだいたい3.9キロメートルだから、十里を進めば39キロメートルである。元禄二年に東北自動車道はないから、曽良の歩んだ道は違うにしても、だいたい同じ距離になる。

12キロメートルほど歩いて、一休み。そこからまた12キロメートルほど歩いて、一休み。そういうリズムが体に流れていたのか。

外に出るといっても新型コロナ流行下において、私の場合は、食品を買いにスーパーに行くのがほとんどで、家からスーパーまでは歩いて500メートルほどである。500メートル行って、500メートル帰ってくる、この1キロメートルのリズムが私の生活と言える。

ところで「合羽モトヲル也」とは何だろうか。「合羽も通るなり」ということか。まさか合羽が浮遊して曾良の視界を通ったということはないだろうから、合羽を着た人が歩いていた、ということか。合羽を着た人物の、人物は消え失せて、その合羽だけが曾良の印象に残り、書くべきものとしてあらわれて、そして書かれた「合羽モトオル也」。

たかが合羽ぐらいで、と思ったが気になり調べてみると、次のように書かれている。

元禄初年(1688年)
富裕な町人、 医師、 俳人たちも合羽の贅を競うようになったため、 幕府は数度に渡って着用を禁止

   合羽の歴史(リンク

元禄の頃、合羽はハイファッションアイテムだったと考えられる。一ノ関にて、羽振りのよい金持ちとすれ違ったのか。その時、曾良の目に妙に合羽が残ってしまった。

明治三十四年は、西暦に直すと1901年。曽良が合羽のことを日記に記載してからおよそ200年後に森鴎外は次のことを記している。

明治三十四年五月

 十二日。日曜日。婢たかを罷めて家に還らしむ。

   森鴎外『小倉日記』(鴎外全集 第三十五巻 より)

森鴎外の文章は今に立てば約100年前の文章で、まだ時間の地続き感はあるが、すんなりとはもう読めない。私だけかもしれないが。

「婢」とは何か、何と読むのか。「はしため」と読むらしいが、下働きの女、女中の意味らしい。「たか」は女中の名前だろう。「罷」は「ひ、や」などと読む。仕事をやめさせる、などの意味がある。「罷免」という言葉があるね。「しむ」は使役の助動詞で、「・・・させる」などの意味。

ということから「婢(はしため)たかを罷(や)めて家に還(かえ)らしむ」は次のような意味だろう。
   <女中のたかを解雇し、家に帰らせた。>

一体、たかに何があったのか。寝坊したのか。掃除が雑だったのか。飯がまずかったのか。わからないが、鴎外は気難しそうだから、些細なミスが命取りになりそうだ、と勝手に想像してしまう。

たかは少ない荷物を持って、うつむきながら道を歩いている。
(たか、がんばれと声をかけたくなる)

スギ薬局の株価は、5月11日の9:00では、8,560円だったが、今日、5月12日の9:00では、8,250円に値下がりしていた。

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