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「幸せとは何か」と考える時間は幸せなのか?

とある夏の始まりのある日。たまたま神社にふらりと立ち寄った時に、七夕飾りが目に入りました。笹に書いた短冊の願い事をチラチラと見てると「幸せになれますように」と書いた願い事がいくつも。

それ以来、「幸せとは何か、、、」「幸せになりたいって、つまりどうゆうこと?」とぼんやり考えを巡らせるようになりました。


そのうち、「幸せになりたい」のであれば、「何が幸せになった状態なのか」を知っている必要があるよねと考えるに至りました。

「野球選手になりたい」人が、「野球選手になったら大勢の観客の中で野球をする」とか「野球選手という仕事をすることでずっと野球をしていられる」とイメージできているのと同じように。

「幸せの状態」を知っているからこそ「あ、今が幸せだー!」と感じられるのだ、と。


ちなみにこの世に生きる人間は大抵「幸せになりたい」と思っている前提でこの話は進んでいきます。不幸になりたい人はいないと思っていますよ私は。


「幸せとは何か」と考えるのは、うん千年も前から哲学者とか色んな人が考えてきたことで、今さら私が考えることでもないんだろうなあとか思いつつも

そういった先人の皆さまの答えをのぞき見していないあたり、私は暇な人だなあとか苦笑してしまいます。


ただ、20数年生きてきた経験から、幸せとは「じわじわ湧き上がる」特性を持っているのではなかろうかと思っています。

「幸せ」をこれだ!と一つに具体化するのはなかなか至難の業です。お金がたくさんもらえたから、家を購入したから、ピカピカの車が手に入ったから、というような物質的な価値から得られる幸せだってあるでしょう。

また、夢に一歩近づいた、結果を残せた、好きな子が笑ってくれた、みたいな種類の幸せもあるでしょう。精神的な幸せ、と言えるのかな?

こういう色んな形の幸せがあると思うのですが、個人的には「ああ。。。。幸せだなあ。。。。」と思わずつぶやくようなひとときに幸せを感じます。

冷え切った体を温かいお湯が包み込んでくれてるような時。家のドアを開けたら空気が澄んでて青空が広がっているような時。時間を気にせず友人とおしゃべりに花を咲かせている時。

日常の、何気なくて、ふとした瞬間に、じわ〜と何かが流れこんできたら、それが幸せの正体だなあとか思いました。


最後に、とても面白いなとnoteを書きながら気づいたことがあります。

1人でぼんやりと「幸せってなんだ?」を考えている時間は全然「幸せだなあ」なんて微塵も思えなかったです。

幸せになるために幸せってなんだ?と考えることが実は幸せじゃない、というトラップにはまっていました。全然「じわじわ〜」の感覚はやってこなかった。。

けれど、こうやってとりとめもなくnoteを書いていたら、あら不思議、じわじわ、幸せを感じるのです。

書くって、偉大だ。



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