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あなたは私の目に貴く、重んじられる

ある時、ある人に自分の話をしたときに、その方は私の話を聞いて「今日まで生きていてくれて良かった。今までよく頑張ってきたね。」と言って、肩を叩いてくれた。

今日に至るまで、わたしにとってはどちらかと言えば苦しいことの多い日々だった。

自分の内面での葛藤や混乱をはじめ、友人関係、親との関係などに苦しみ続けてきた。

中学生の頃、クラス内でいじめに遭い学校へ通うことができなくなった。

それでも、私は<ふつう>だという意地があり、普通科の高校へ進学した。しかし、その中でも集団にうまく馴染めず、人と距離を置いて付き合うことしかできなかった。

成績維持や受験などのストレスで、体調を崩しパニック障害だと診断され、一人で電車に乗ることさえできなくなった。

中学生の頃も、高校生の頃も私は、行動しようとしても体が動かず尻込みすることがほとんどだった。この期間は、生きていることが本当につらかった。

自分の体さえ思う通りにならないのならこの先どうやって生きるのだろう、親や先生などの守ってくれる大人がいなければ生きられないのではないか、ずっと誰かに依存して生きていくのだろうか。そう思うとたまらなくなって生きていくことを投げ出したてしまいたかった。

この話を先の言葉をかけてくれた方に話そうと思ったのは、この話をして嫌われるのなら今が良いと思ったからだ。

そんな後ろ向きな気持ちで打ち明けた私の身の上話をその方は、真摯に受け止めてくれ、さらに私がそこに存在することを認め、生きていることを喜んでくれた、生きることに苦しんできた私にとってそれ以上嬉しいことはなかった。

このことが今まで自分に制約をかけてきた私にとってやりたいことをやっても良いのだという、行動を起こすきっかけになった。

そして、最初に起こした行動が大学の海外プログラムに参加すること。

しかし、私は海外へ行く数日前から日本を離れるのが嫌だった。十日も日本を離れたら、ここにある私の居場所がなくなってしまうのではないかと不安だった。

嫌々ながら行った先で私が得たものは、たくさんの温かい人との出会い。

いつもの場所を離れてみると色々なことに気づくことができる。何気ない家族の支えや友人たちの温かさ、恋人の思いやりや優しさ。

そして、日本にいる時には気づけなかった自分自身の新しい一面。

様々な苦しみを通してこれらに気づき私は今、心から「生きてきて良かった。」と感じる。

人から存在を認められて喜ぶところから、自分で自分の存在を認めることができるまで私は成長した。

私は今、ここにいられることに感謝の気持ちでいっぱいです。

旧約聖書 イザヤ書43章4節

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