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慶應大学講義『都市型ポップス概論』⑩ 【77年のCMソングと都市型ポップス】 (こたにな々)

●文学部 久保田万太郎記念講座【現代芸術 Ⅰ】

『都市型ポップス概論』 第十回目

----------------2018.06.22 慶應義塾大学 三田キャンパス

講師:藤井丈司 (音楽プロデューサー) ・ 牧村憲一 (音楽プロデューサー)


70年代初期、各レコード会社は急速に ”アマチュア” と呼ばれているミュージシャンと接近した。一方、アマチュアミュージシャン側は当時の ”歌謡曲” や ”芸能界” と一緒に見られる事を避けようとした。

結果的に ”会社内レーベル” ができ、あくまでも国内に限ってのことだったが海外の著名なレーベルに属する、あるいはレーベルを使用するミュージシャンもいた。

この動きが70年代中頃から80年代にさらに発展拡大し、”邦楽の中の洋楽” というような、それまでの日本の歌謡曲や演歌とは違う立ち位置となった。

レーベル運営には洋楽経験のあるディレクターも多くいた。一般的にはそれまでの洋楽担当のディレクターは海外のカタログから楽曲を選び、リリースや宣伝をするというのが仕事で、”制作” という仕事はめったに無かった。しかしレコードマンである限り、作りたい、プロデュースの仕事をしたいという望みはあった。それを叶えたのが ”レーベル” だった。

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コマーシャル・ソング―

●1977年度のヒットチャートではピンク・レディをはじめとして歌謡曲勢が目立つ。当然の事だが大手レコード会社に所属し、TVの歌番組にも常時出演する事が出来るメインアーティスト達だ。

そしてもうひとつの特徴、チャート内にCMソングタイアップ曲が入ってきたのだ。

●22位『サクセス』ダウンタウン・ブギウギ・バンド はコマーシャルソングとして資生堂コマーシャルとの連動だった。

商品名や、キャンペンテーマが曲のタイトルの中に入っている事が70年代・80年代のCMタイアップの大きな特色だった。大手プロダクションに所属せず、TVの歌番組の常連ではなかったミュージシャンたちは、CMを通してTVに、お茶の間に進出した。

FUJIFILM『フジカラー』やSUBARU『レックス』をはじめとした吉田拓郎の楽曲とタイアップしたCM集。

参照リンク:https://www.youtube.com/watch?v=6XvIlc9_We0

三ツ矢サイダーをはじめとした大瀧詠一の楽曲とタイアップしたCM集。

参照リンク:https://www.youtube.com/watch?v=-FzruJ9BNEw

自身も出演しブレイクのきっかけともなった、Maxellと山下達郎『RIDE ON TIME』のタイアップCM。

参照リンク:https://www.youtube.com/watch?v=uXb00WMpjUQ

商品名が入っており、曲の中で連呼しているのが特徴。商品の特性が音楽や詞に、特に短い中にもサウンドや歌に反映された状態 ”シズる感” をCMはとても大事にした。例えば、三ツ矢サイダーでは楽曲の最後でサイダーがシュワシュワとしているような、商品特性を音楽の中で表現している。

しかし80年前後には商品名よりもヒットさせることが目的となりこの仕組みが壊れる。コマーシャルソングはモノから企業の、キャンペーンのイメージソングとなった。

一番有名だったのは資生堂やカネボウによる化粧品会社の春のキャンペーン競争。 ”次は誰を使うか”という競争と ”誰が使われるのか” という事が世間の興味を惹いた。

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TVコマーシャルが起こした逆転現象−

TVには出ないと言っていたフォーク系やニューミュージック側が逆にコマーシャルという媒体を使ってTVに進出して行くという逆転の現象が起こっていた。

参照リンク:https://www.youtube.com/watch?v=h7PtlgfHXYo

世界中で大ヒットしたイーグルス『ホテル・カリフォルニア』は発売元はワーナーパイオニア(現ワーナー)。

これを日本のワーナーが日本語で日本人でカバーすれば売れるだろうとリリース。訳詞はなかにし礼。

●タンポポ『ホテル・カリフォルニア』

参照リンク(音源のみ):https://www.youtube.com/watch?v=_tBHFN1x4bo

最も人気のあったアイドルグループのキャンディーズもコンサートでカバー

参照リンク:https://www.youtube.com/watch?v=4T7h3R17Udo

洋楽の影響を真摯に受け止め、いかにして日本で、日本語で歌うかという問題を抱えていた一方で、ただ日本語を当てはめただけというイージーな企画ものも70年代後半にはまだ残っていた。

それぞれが持っている特性を行き来するようになる―

例えば、”字余りソング” と揶揄された吉田拓郎の曲「私は今日まで生きてみました」。その”です・ます調” の歌詞は後に演歌などに現れた。否定した事も早々に歌謡曲界は積極的にそれを飲み込んでいく。たくましいのである。

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『いしだあゆみとティンパンアレイ』  細野晴臣・鈴木茂・林立夫を中心としたティン・パン・アレイが歌謡曲歌手のアルバムに参加し、アレンジ、演奏するという企画物。

歌謡曲界も新しく起こってきた音楽と繋がろうという意図があった。

(この企画自体は『雪村いずみ&キャラメル・ママ』に続くものだった)

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鈴木茂

はっぴいえんどの元メンバーでギターリスト。単独でロサンゼルスに渡り、1975年に作ったアルバム『BAND WAGON』

●鈴木茂『砂の女』

参照リンク:https://www.youtube.com/watch?v=RWuae3_kJkA

鈴木茂は日本のロックの代表グループでもある ”はっぴいえんど” のメンバーであり、解散後は ”キャラメル・ママ” に参加。グループ活動の傍らロックギタリストとしてのアルバムを1枚作りたいとロサンゼルスに渡る。しかし現地ではすでに8ビートはもはや古い感覚のものになっており、16ビート全盛になっていた。鈴木茂は、日本でも16ビートをきちんと演奏し表現出来ないと世界基準の音楽は出来ないと気付く。

山下達郎もまたニュー・ソウルやソウルミュージックからの影響で早い段階から16ビートを取り入れていた。こうしていかに16ビートをどう受け入れていくかという問題も新たな課題として出てくる。

様々な洋楽からの影響があり、海外との行き来が新たな課題を明確にしたのが、70年代後半につながる動きだった。

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1977年になると、今の時代にも活躍している慶應大出身者が世の中にまた大勢出てくる―

1977年ピンク・レディ全盛期でビクターレコードの宣伝担当だった川原伸司(現音楽プロデューサー、作曲家 平井夏美、代表曲は井上陽水の『少年時代』)が慶應の軽音楽サークル『リアルマッコイズ』にいた 杉真理 をデビューさせる。

参照リンク:https://www.youtube.com/watch?v=56fZ0xcWLwg

杉真理と川原伸司は強烈なビートルズファンで、二人はビートルズの曲の中に”音頭”になる曲がある事を発見する。それは『イエローサブマリン』で音頭になるという事で企画するが、大瀧詠一の音頭作りを知って一時断念する

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1977年、ライヴハウス『ロフト』がビクターと共にレーベルを立ち上げる。最初に企画されたのが『ロフト』の店員をしつつ、チャンスを待っていたシンガー&ソングライターのデビュー・アルバム。次がロフト・オーナー平野悠と叔父甥の関係であり、料理研究家・平野レミの父であるUFO研究家 ”平野威馬雄” のUFOレコード企画。ジャケットは横尾忠則が作画。

さらに当時『ロフト』に出ていた凄腕の若手ミュージシャン達とまだ世に知られていないフィメール・シンガー達を組み合わせてのセッション・アルバムを企画した。その企画に川原伸司から紹介されたのが、まだ慶應の学生でアマチュアだった ”竹内まりや” だった。

杉真理のバンドのカセットテープ内でワンコーラスだけリードボーカルをとった竹内まりやの歌声を聴いて、当時牧村先生が思ったのは「日本一のシンガーになる」という予感。文学部英文科の学生だった竹内まりや本人はあくまでも歌手になる気はなく英語を生かした職業に付きたいと思っていた。ただ、もし自分がレコーディングをするとしたらこういう人達が作曲して欲しい...というリスト全員がなんと牧村先生の知り合いであり、それがきっかけとなってデビューに結びつく事となった。

そのリストの中に入っていたのが山下達郎、そして杉真理だった。

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その前年に慶應大学出身者でデビューしたのが佐藤奈々子 だった。ささやくように歌うのが特徴で、佐野元春作曲・佐藤奈々子作詞というコンビの楽曲を、慶應の音楽サークル『ライト・ミュージック・ソサイェティー』の出身者、大野雄二がアレンジをした。

時代の変わり目に登場する慶応大の出身達−

●『夜のイサドラ』佐藤奈々子

参照リンク(音源のみ):https://www.youtube.com/watch?v=vElY9GA1RS8

佐藤奈々子とコンビを組んでいた佐野元春は立教大学出身者。

参照リンク:https://www.youtube.com/watch?v=wt-1fZDXrOM

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杉真理と佐野元春は大瀧詠一と共に『ナイアガラトライアングル Vol.2』という作品を作る。(第一期は山下達郎と伊藤銀次と大瀧詠一による『ナイアガラトライアングル Vol.1』)

都市型ポップスに繋がるシンガー&ソングライター達が結びついていく...

都市型ポップスとは、目には見えないが確かな領域の中で継続されながら出来ているものである―。

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今から見ると時代がすごく良かったんではないかと思うかもしれない。しかし、1976年デビュー組の音楽家達のほとんどが、セールス面に限れば失速ぎみになってしまった。当時のポピュラー音楽界はまだまだTVの音楽番組中心だった為、TVに足がかりのないミュージシャン達はコンサートをこまめに重ねていくしかなかった。それでも決定的な動員力はなく、全国ツアーを組むことはかなり難しかった。

アルバムのセールスが実質一万枚~二万枚だと、当時の制作費がおおよそ1000万円から2000万円までという高いコストだったため、最終的に七万~八万枚売れる目処がつかないと、次作の費用が捻出できないとレコード会社に判断された。その為、音楽家たちは仕方なく低いコストで作ったり、コンサートをやりながらレコーディングしたりと苦しい状況だった。新しい試みは必ずしも成功していなかった。

そうした状況を変えるためには人を惹きつけるシンプルで強い力が必要。作品を作るには素晴らしい人材が揃ったが、表現者、特にシンガー役がいない為、作品を広げていく事が極めて大事なことではないかと、音楽プロデューサーである牧村先生は考えた。有能なソングライターには、クオリティーの高い音楽を表現出来るシンガーが必要と考えて、牧村先生は竹内まりやにデビューして欲しかった。そしてその願いは叶えられた−

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いよいよ1978年、サザンオールスターズ・竹内まりや・YMOがデビュー。次回へ!!!https://note.mu/kurashi_no_nana/n/n5b30115d56c6

お読み下さってありがとうございました!

本文章は牧村さん及び藤井さんの許可と添削を経て掲載させて頂いています


文:こたにな々 (ライター)  兵庫県出身・東京都在住  https://twitter.com/HiPlease7

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