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慶應大学講義『都市型ポップス概論』⑧  【シュガーベイブ】(こたにな々)

●文学部 久保田万太郎記念講座【現代芸術 Ⅰ】

『都市型ポップス概論』 第八回目

----------------2018.06.08 慶應義塾大学 三田キャンパス

講師:藤井丈司 (音楽プロデューサー) ・ 牧村憲一 (音楽プロデューサー)

1972〜73年の1年がどれだけ日本の音楽を変えたのか..

山下達郎がソロデビュー以前に所属していたバンド ”シュガーベイブ”。大貫妙子を含むメンバーで1973年に結成。75年にデビューし76年に解散した。

シュガーベイブが残したただ一枚のアルバム『SONGS』の発売40周年を記念した2015年NHK-FMでのラジオ特番より。(12:40~)

参照リンク:https://www.youtube.com/watch?v=RHz7WqKa67o

●山下達郎の発言70年代初頭は政治と音楽の季節。60年代から70年代の文化の最先端はレコードと共に記録が発達した”音楽”だった。そこに政治の争乱がくっつきドロップアウトした人々はほとんど音楽の世界に入り込んだ。そのおかげで今まで日本になかったムーブメントが生まれ、日本語で歌われた ”ロック&フォーク” がいつしか ”ニューウェーブ” に変わり、今は ”J-pop” と呼ばれるように。そういう音楽が持つ強い力の流れの中で、本来は私も大貫妙子もミュージシャンになるつもりはなかったが関わっていく内にミュージシャンの道を歩む事になる。」

●シュガーベイブ『DARLIN'』

参照リンク(音源のみ):https://www.youtube.com/watch?v=TAx5RzhjnQ4

若き日の山下達郎の歌い方はある意味で時代への挑戦だった。それは特にロックコンサートで目撃された。限界かと思われるほどの高く大きな声で、シャウトし続けているのではといった歌唱だった。

ーそれはなぜか?

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本牧を舞台にロック・GS・アートロック等、日本のロックの歴史を支える人たちが所属していたバンド、 ”ゴールデンカップス”。

矢野顕子や忌野清志郎、横山剣、ムッシュかまやつ等、当時の証言を収めた ”ゴールデンカップス” のドキュメンタリー映像より。(16:48〜)

参照リンク:https://www.youtube.com/watch?v=IZdNOt-HFNg

歌謡曲作家が作った『長い髪の少女』がヒット。ほとんどのメンバーが日本人と外国人の間に生まれ、横浜を移住地とする共通の環境を持っていた。 演奏も巧く、ルックスも良く、当然爆発的な人気を得ていた。1968年から1972年までの間はメンバーチェンジをしながら活動を続けた。元々はブルースがやりたくて集まったメンバーだったが、デビュー時には歌謡曲の体制の中で音楽をやらなければいけないという矛盾があった。

音楽面では徐々にブルースに戻って行き、メンバーの内の一人がアメリカ国籍を持っており、ベトナム戦争でいつ徴兵されるか分からないという問題やビザの問題で脱退、メンバーチェンジを繰り返していたが、、

1972年に正式解散。 ”ロックとは何か、ブルースとは何か”という問いかけが残った------------------

この時代に活躍していた音楽家は多数おり、”頭脳警察” ”ファー・イースト・ファミリー・バンド” ”矢野顕子” ”RCサクセション” らもいた。

その中に混ざって ”シュガーベイブ” が他のバンドのパワーに負けない為には、本来のポップさを主張するのではなくて(冒頭の『DARLIN'』の歌唱方法のように)”絶唱する” ほかなかったのだと思う。

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●Bruce Springsteenの『Born in the U.S.A.』

現在に至ってもまだ大統領選で利用されるなど、アメリカという国を肯定的に捉える曲と誤解されているが、Bruce Springsteenが込めた思いは真逆だった。ベトナム戦争を体験した友人達や帰還兵たちの抱えた悲劇、自分達はアメリカに生まれてしまったのだという思いが込められた歌だった。

参照リンク:https://www.youtube.com/watch?v=EPhWR4d3FJQ

世間に誤解されつつの大ヒットの後、Bruce Springsteenはアコースティックで歌詞に合わせ、ブルースのように歌い直している。

参照リンク:https://www.youtube.com/watch?v=d8TwMqpBeL4

戦争の影はアメリカだけではなく、ベトナム戦争のあった60年代〜70年代、日本でも基地のある街ではその影響は様々にあった。“ゴールデンカップスの解散” は芸能界との軋轢の問題だけではなく ”戦争” とも遠からず関係していた。

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様々な”暗さ”が相まった1972年、その幕は一度降りる。

四谷にあるジャズ喫茶を一時的にだったがロック喫茶に変えた場所に、夜な夜な20代前後の若者が集いセッションが始まった。それがきっかけとなって作られたバンドが ”シュガーベイブ” である。

シュガーベイブ『DOWN TOWN』という曲についてー

●日本のソウルコーラスグループ ”キングトーンズ” の企画盤

海外のカバーではなく、国内の様々な若手シンガーソングライターに曲を書いてもらって1枚のアルバムを作ろうという企画があった。その中のライターが ”山下達郎””伊藤銀次” のコンビであり、後にシュガーベイブに歌われる事になった『DOWN TOWN』という曲だった。

結果その企画はお蔵入りとなり、キングトーンズが歌う事はなかったが、後に同じ企画が立ち上がり、シンガーソングライターの ”高野寛” が書き下ろしたのが『夢の中で会えるでしょう』という曲だった。

参照リンク:https://www.youtube.com/watch?v=cOwEhld3cM4

日本では作詞家や作曲家が別々に詞・曲を作るのが常だったが、アメリカでは ”作詞家と作曲家が共同作業をしている” ことをヒントに、自分達もそれをやってみようと、”山下達郎” と ”伊藤銀次” はソングライティングチームを組み、キングストーンの曲に応募する事にした。

最初に出来たのは伊藤銀次作詞の「DOWN TOWNへくりだそう」という一節のみ。それを基に山下達郎が作曲。もう一度伊藤銀次が詞を全編書くという手順だった。

この歌詞のヒントになった曲がもしかすると、黒沢明とロス・プリモスの『ラブユー東京』ではないか。

参照リンク:https://www.youtube.com/watch?v=uA2c2OhrMmc

同じ”東京の街”の歌という事で歌い出しの「七色の」や「シャボン玉」といった歌詞の引用は偶然だろうか。伊藤銀次ならではの、高度な遊びと洒落が入っている気がする。

そういえば、歌中の「うきうき」は『森田一義アワー 笑っていいとも!』のテーマソング『ウキウキWATCHING』にも使用されている。もちろんどちらも伊藤銀次の作品である。

1973年に始まったこうした作業はこれまでの ”洋楽やロックやブルースというのはこういうものだ!” というテクニカルなものに対し、”そうじゃない事” をやった人達が日本のポップスシーンに登場する前夜となった。

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●山下達郎の作曲●

何よりも『DOWN TOWN』が異質でありながら結果多くの支持を得たのは、メジャーセブンスコードの使用やコード進行にあった。

シュガーベイブは、はっぴいえんどやユーミンがどちらかといえば8ビートのメロディーや内省的な歌詞を歌っていたのに対して、メロディーが16ビート、軽快であり歌詞も推進力があり都会的であったのが、他に比して抜きん出て革新的だった。

シュガーベイブ時代の山下達郎のアレンジは彼自身が中高で吹奏楽をやっていた事にもヒントがありそうだ。『DOWN TOWN』や『パレード』のイントロには管楽器をギターに置き換えたアレンジで、いかにも山下達郎の世界といえる。

●山下達郎の作詞●

シュガーベイブの頃の作品にはSF作家のレイ・ブラッドベリの影響がありそうだ。70年代はSF小説が若者の間で静かなブームとなっていた。

『パレード』の詞にある「まどろむ様なピンクの明かりは浮かれ騒ぎにとってもお似合い」「ごらん!!パレードが行くよ」というのは、レイ・ブラッドベリの世界観が垣間見られる。

『DOWN TOWN』と同じように『パレード』もまた ”ありそうでない街” を歌っている。自分の記憶の中にはあるはずなのに探すと実際は存在しない、というシュガーベイブの街のイメージは、はっぴいえんどの『風街』ととても近い位置にあった。

微妙に違っているのは、はっぴいえんど、松本隆は住んでいた街 = ”東京 オリンピック以前の失われた幻想としての東京の原風景” を元にしていた。対して、山下達郎はフィクションとして ”街” を書いた。

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山下達郎と大瀧詠一の”様式美”

山下達郎と大瀧詠一の会話の中で使われていた言葉、それは”様式美”という言葉。

この言葉が意味するのは ”これが基本型だ”という事をきちんと把握する事。それには、尽きない研究が必要だと。
今あるものの先にあって、その先の先へと、いくらでも遡ることができる。
その研究心・探求心によって精度が高くなる
、と。

それをきちんと自分のモノにした時に、逆説的だが ”様式美” を壊した曲も書けるし、当然 ”様式美” に則った曲も書ける、と。

これはパクリや模倣に対する明快なひとつの答えだった。

●伊藤銀次の証言

大瀧詠一に「好きな曲を徹底的にコピーしなさい」とアドバイスをもらったその後、大瀧詠一の前でコピーを披露した際に「それは”モノマネ”であって”コピー”ではない」という言葉が返って来た。モノマネというのはあくまで形を真似るものであって、大瀧詠一が言った”コピー”といいうのは”それがなぜそうであるか”という真髄がきちんと理解出来ているかという所にある、と。

この考えが、大瀧詠一・山下達郎・伊藤銀次の共通性であり、この3人で作られた『NAIAGARA TRIANGLE Vol.1』に繋がっている...

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次回へ!!!!https://note.mu/kurashi_no_nana/n/n5eeea345f0b0

お読み下さってありがとうございました!


本文章は牧村さん及び藤井さんの許可と添削を経て掲載させて頂いています

文:こたにな々 (ライター)   兵庫県出身・東京都在住  https://twitter.com/HiPlease7

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