2020年の日々・フロムホーム

4月18日

フロムホーム1日目。「家からの発信」について考え始める。(フロムは物理的な移動を伴うので実際にはアットホームなんだろうけど、和製英語的に「家から」のイメージを強くする)

この状況を生かしての一人芝居を遊びとして、いろいろ考えてる。おそらく、誰かが思いつくだろうから、ジャストアイデアだけどメモしておく。まず、『アンネの日記』だ。アンネがパソコンで日記を書いているように翻案する。ロフトの部屋だと臨場感増すかも。次に、白雪姫。パソコン画面を鏡に見立てて、白雪姫の母、魔女、白雪姫が鏡に語りかける場面で構成していく。メイク替えが大変だけど。役を分ければ、ZOOM上で展開していくことも可能かと。かぐや姫が夜な夜なお爺さんお婆さんの目を盗んで、月と交信して地球での生活を報告しているとか。背景は書き割りのつもりでバーチャル背景(笑)。技術的にクリアしなきゃいけないことはあるだろうけど、フォーマットとしては様々考えつく。まあ、それを人に見せるレベルにするには、実際に何作か試していかないとだなあ。

あと、謎解きオンライン演劇とかできないかな。事件編はYouTubeで録画配信。事件が起きるが、名探偵は海外にいて探偵事務所には助手しかいない。助手はオンラインを通じて探偵に報告しながら捜査を進めていく。容疑者数名のTwitterアカウントを実際に作っておいて、タイムラインを視聴者も見ることができる。そのタイムラインをヒントに、インスタやFacebookの写真も手掛かりにしながら、観客も一緒に捜査を進める。そして、古畑的に観客に推理を促す。しばらくのタイムラグをおいて、解決編をZOOMで開始。名探偵と助手と容疑者がZOOMで一同に介し、謎解きが行われていく…。て、観客の負担が大きいけど、できなくはないな。

4月19日

フロムホーム2日目。先週のオンライン授業はガイダンスで、まず状況に慣れるので手一杯だったが、今週からは授業に工夫を始める。画面共有やホワイトボード機能なども試したが、どうも身体感覚的にしっくり来ない。映像共有は学生のネット環境によっては厳しいとの報告も。やっぱり会議やゼミ形式と大多数への講義はやり方を変えなきゃだなー。

ということで、自宅にあった45㎝×60㎝のホワイトボードを、嵩上げしたパイプ椅子に立てかけ、さらに要所要所ではスケッチブックをフリップ代わりに使うという、超アナログ手法でいくことにした。字を読ませるため、画面のミラーリングをオフにするので画面に映る自分に戸惑いはあるが、慣れるしかない。でも、本来の目的は字を読ませることでは実はない。自分の語り口調のテンポをその方が保ちやすいから。さて、本番は明後日火曜日。明日リハーサルしてみる。

14時からはロロのオンライン演劇、窓辺第1話『ちかくに2つのたのしい窓』を観劇。20分弱の短編。リアルな会話劇だとZOOMで話す関係性という条件を台本に織り込む必要があるよなあと実感。昨日の『未開の議場』は現代口語演劇でいうところのセミパブリックな空間、ロロはプライベートな空間、受け入れやすいのは自分の場合は前者だった。虚構性の強い作品の場合はどうなるのか、興味深い。NOTEからの寄付が簡単にできるのにも驚き。応援しました。

夜は、ハイバイの岩井さんが企画した、第2回「いきなり本読み!」をVimeoレンタルで課金して観劇。着々と勉強中。

4月27日

フロムホーム10日目。今日は、友人の音楽家から珍しく電話がかかってきた。大きくは「オンライン授業ってどうやってる?」の情報交換だったんだけど、そこからなんとなくお互いの不安を整理するような流れになって、それがちょっと腑に落ちたので記してみる。

僕ら自身の演劇や音楽を行うという【行為】は死なない。今の一個人としての不安は明らかに生活(収入)への不安。生活が正常化すれば僕らの演劇や音楽はまた始められる。それだけの意志と技術はすでに持っている。借金や破産への不安を、演劇や音楽を続けられるかの不安ととらえると、無理やり「行為」をしなきゃとなり、不安による集中を欠いた状態での行為によってかえって傷つくことになる。自分たちのやりたい演劇や音楽はあとから回復することができると信じて、その前に今は、一社会人の一個人の一フリーランスとして、他の業種の人たちと同じように、福祉の側面からの支援も視野に入れつつ、生活を維持することをまず第一にする。

一方で、文化の側面からの支援金は、まずは3月4月の公演中止で実際に損金が出た人や集団への補填をして欲しい。これはもう早急に。それから、これまでおよびこれからの数ヶ月の影響によって、劇場やライブスペースの運営者を破産や廃業をさせないためにお金を集め、使って欲しい。自分たちも微力ながら金銭を提供する側に回りたい。いや、ほんと、微力で申し訳ない…。ともあれ、演劇や音楽を発信する【場】は失われてはならない=死なせてはならない。それは日本の文化や地域文化を支えるインフラだから。

(とはいえ、個人的には今ある【場】が全部失われたとしても、僕らの【行為】がある限り、違う形の場が生まれるだろうとは思っています。というか、生まなきゃね。水道というインフラが失われたなら、水が飲める川を探すか、雨水をためるか、井戸を掘るというこれまでしなかった苦労をするしかない)

そして、もう一つ、文化を享受する市民の【機会】を失わせてはいけない。【場】と【行為】があれば【機会】が保証されるわけではない。例えば演劇ならこれまでは、劇場という【場】、創作して上演という【行為】があれば、観劇という【機会】が保証されていたが、今の状況が続くのであれば、例えばオンラインという【場】にアクセスできるのかとか、【行為】の情報を得ることができるのかという、機会喪失の流れが出てくる。そう、考えてみたら、僕はいつもこの【機会】をどう用意するのかを、大事に考えていたんだよなと、話をしていて思い出した。

という流れで、実は、市民から【機会】を失わせないためにどうするかを、今、自分は考えたいと気づいた、という記録。

5月1日

フロムホーム14日目。オンラインで舞台の映像を集中的に観てきて気づいたことの記録(長文かつ断片的)。実際の舞台の映像を「リアル舞台」、ZOOMやYouTubeを舞台にした映像を「オンライン舞台」と呼ぶことにする。

*基本的にはどれも劇場での集中とは異質なものだった。(当たり前といえば当たり前だけど、この事実はけっこうでかい)

*その中でも、リアル舞台の録画は集中を保ちやすかった。それは、自分自身の観劇体験の記憶から客席での体感を補完できるから。(自分が観たことのない作品であっても、客席にいたらこうだったんだろうなというのは想像できる)

*編集されたリアル舞台の録画は、既存の舞台中継と同じ文法で創られており、特に目新しい映像体験ではなかった。

*一方、定点カメラによるノー編集のリアル舞台の録画は、ドキュメンタリーを観ている感覚に近い。物語や登場人物に何が起きているか、よりは、演出や俳優やスタッフが何をしているか、への興味が強い。しかし、それは僕が演出家だからかもしれない。なぜなら、定点映像は自分が常に観ている視界だから。

*オンライン舞台はライブストリーミングの場合、「今、全員が同じ時間、デバイスの前という同じ空間にいる」の共有はあり、目に見えない他の観客との一体感はあった。チャットがあって有効かどうかは、ジャンルや演目次第だろう。

*しかし、オンライン舞台の録画は途端に色あせる(作品がではなく体験として)。「生配信で観てたら楽しかったんだろうなあ」という確認にはなるが、「それでも観ておこう」となるには補助動力が必要。

*オンライン舞台はコミュニケーションの面白さに特化される。その意味で落語の縦のコミュニケーション(観客とのコミュニケーション)は抜群だった。横のコミュニケーションでは綿密に構築された会話劇に見応えがあった。

*横のコミュニケーションが、画面上では皆が正面向き(縦)になっているという面白さは何かに似ていると思ったが、思い出した。宮城聰さんが演出した平田オリザさんの『忠臣蔵』だ。

*縦のコミュニケーションは出演者が画面の向こうの観客をどれだけ想像できるかに、劇場以上にかかっている。

*劇場での無観客舞台のライブ配信が、現段階で最も実際の観劇体験に近いものだが、定点でなく複数カメラによる撮影やスイッチング、照明、音響など、いわゆる放送局のスタジオ生放送と同じテクニカルを理想的には必要とする。

*インプロのオンライン舞台は、リアルでのインプロ公演の際に観客として感じる違和感が増幅されているように感じた。しかし、これはあくまで一観客としての自分の好みなので割愛。ただ、オンラインのインプロの成否は「観客にとってどうか」というより「出演者にとってどうか」に関わっているのではないか。出演者がオンラインというフォーマットに慣れてくると、新しい地平が開かれるかもしれない。

*オンライン舞台は空間と時間のあり方が強く限定されている。

*空間はプライベート空間を背景にしており、ZOOMではそれが分割され、位置の違いはあれど同じ強度で存在するため、空間が混じり合ったり、反発しあったりすることはない。つまり、空間感覚が揺さぶられない。

*時間感覚が一定であり、体感的に早くなったり、遅くなったりしない。会話のテンポの上げ下げはできるが、体に残らない。つまり、時間感覚もまた揺さぶられない。

*空間感覚、時間感覚が揺さぶられないため、「観劇する体」という集中力を持った状態に持っていきにくく、退屈したり、「ながら見」になりがち。(実はこれはリアル舞台で、つまらない時に起きるのと同じ現象ということに気づく)

*空間の奥行きを出すのは、人物設定やビジュアルによって可能性ありそう。一人一人の空間の照明を工夫するとか。また、複数出演者のうち、例えば一人だけ「なぜそんなところにいるのか」とすることで、空間の差別化は行えそう。奥行きと差別化による神秘性の演出は可能だが、実験には時間がかかるだろう。

*こうやって書いていくと、自分が劇場での観劇体験において「想像力、空間感覚、時間感覚、縦横のコミュニケーション、神秘性」の演出を重視しているのが、あらためてわかった。

5月2日

フロムホーム15日目。主にTwitterで可視化された「分断という名の憎悪」の直撃を受けて、弱っている友人に告げたいこと。

仮想敵を作って誰かを憎むことで、不安をごまかそうという人はいっぱいいる。非常時は、そういう人の非寛容性が悪意となってあぶり出されてくる。そうした中、自分をできるだけ寛容に保つには、悪意の存在を想像しつつも、直接的な悪意には触れないようにすること。非常時における人間関係と通常時における人間関係は全く別物と考えて、憎悪と悪意を発する人はばんばん遠ざけておけばいい。

他者の憎悪を想像として受け入れはするが、直接触れないようにする、という回路を作ろう。Twitterで情報を得ることよりも、そっちの方が大事。ミュートするのも手だけど、Twitterアプリをまずは1週間削除するといい。なんなら、一切情報を断ってもいい。瞑想、読書、好きな動画を観るとかしかしないと決めるといい。いっそ方丈記のような心づもりで。

たぶん、自分が今、割と平静なのは、3月からTwitterを一旦断ち、一ヶ月以上距離を置いたから。2月末の時点で、この感じはやばいと思ったんだよね。それで、情報が得られなくて困ることは無かった。Twitterで多く流れるのは情報でなく世間の気分だから、必要ない。あと、実はコロナ関係の重要な情報はYouTubeに映像で出る。

自分の場合、心がいちばん弱ってる時に必要なのは歌舞音曲、ちょっと回復したら演劇、演芸、映画。もうちょっと回復したら文学や哲学って感じ。割とそのあたりを行ったり来たりしてる。どれも「何かの立場や意見を決めよう」と思わないで、水を飲むようにごくごく飲むのがよろし。必要なものは体に残り、いらないものは自然と排泄される。

非日常の今は、自分をニュートラルとか、ナチュラルとかに戻す良い機会かもしれない。自分に課してしまっている義務を放棄し、束縛から開放されるイメージに遊んでみよう。

おやすみなさい。

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