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年1で『教える』場に携わる私が心がけていること

はじめに

クラ(@KurAruK)と言います。
京都の制作会社で広報・マークアップエンジニア・営業をやっているアラサー女です。生まれ育った鳥取を離れて、京都にやってきて10年目になりました。

最近、友人と会話している中で「1年に1度以上は、人前ないし人と関わる『教える』場に携わっている」ということに気付きました。
教師や教育関係者でもない私が、何故そのような場に継続的に携わっているかは分かりませんが、その状況下にいる中での取り組み方、心がけていることを記しておきます。
ここでの見解は、受講者側ではなく、『教える』立場ないし『教える』立場をサポート、共同運営していく側のものです。
あくまでも自己整理の一環ですが、「急に『教える』立場になったけど、どうして良いか分からない」という方やその場に携わる人達ならずとも誰かの何かになれば幸いです。(今期から教壇に立つ友人の何かになると嬉しいな。)


〜 目次 〜
はじめに
どういう場に携わってきたのか
原点は20歳の時のTA(Teaching Assistant)体験
「寄り添う」・「引き出す」をキーワードに動く
『教え』とは一方的でなく双方的な状態が健全なものではないか
さいごに


どういう場に携わってきたのか

スポットではありますが、母校である京都精華大学の授業やイベントに呼んでいただき、20歳前後の学生さん達と定期的に関わらせていただいています。

京都精華大学さんで授業をしてきました
セイカハッカソンで1日メンターをした話
セイカハッカソンに審査員・メンター・協賛で参加してきました。

情報は近年のものとなりますが、大学卒業から毎年、1年に1度以上は『教える』場に携わっている状況です。会社が変わりつつな人間ですが、こういった場に呼んでいただけるのは有り難いことです。
携わる内容は、技術(HTML,CSS)・アイデア(ワークショップ時のメンターや主教員のゲスト・サポートの機会が多い)としています。

また私自身、『ワークショップ』『学び』という分野が好きで、近年はそういったイベントにも足を運び、会社でも人が関わるイベントを企画運営しています。

どうしてこういう思考なのかは、未だに自分自身で言語化出来ていないとこではありますが、両親や親戚の多くが『教師』という仕事をしており、そんな中で生まれ育ったというバックボーンは多少なりとも影響しているように思います。
(後ほど出てきますが、一方的な授業をするような人達の中で育ったのではなく、双方的な授業をするような人達の中で育ちました。そんな人達が多いからこそ、こんな姿勢だろうと考えています。)


原点は20歳の時のTA(Teaching Assistant)体験

先に、自分の家庭環境に多くの『教師』がいることをお伝えしましたが、実際に自分がそちら側に経ったのは、20歳の時です。

1年生のFlashを使用したインタラクティブデザイン(だったはず)にTAとして参加させていただきました。半年間3コマ(1コマ90分なので約4時間半)の授業で、Flashの技術、インタラクティブデザインの考え方を学び、最終的に生徒1人1人が個人制作を行います。

私は、TAとは言えどFlashは半人前の状態(今もですが)。当時、自身の卒業制作も見据え、1年生の授業で考え方・技術を改めて学び直すと共に、TAとして授業をサポートしていくというような形での参加でした。

後輩にあたる約30人の学生と共に『教える』側で過ごすというのは、今思うととても貴重な体験です。ここで培われたものがベースとなり、現在の取り組み方や心がけていることに発展しているような気がします。


「寄り添う」・「引き出す」をキーワードに動く

前置きが長いので、結論を言いましょう。私が現在考えている『教える』場での取り組み方や心がけていることは、ズバリこれです。

「寄り添う」・「引き出す」をキーワードに動く

この考えを言語化出来るようになったのは最近のこと。その原点は、先にも上げたTA体験です。

*****

TAをしていく中で、約30人の学生1人1人と5分間の面談を行い、「最終課題はどんなものを作るのか」「技術や考え方でつまずいていることはないか」ということを聞く機会がありました。
出席番号昇順の学生からメイン担当の先生が順々に聞き、降順の学生からTAの私が順々に聞く。これは、学生達に余白時間や長時間の待ち時間を作らず飽きさせないようにするための工夫。
とは言えど、1人1人と面談をしていくというのは、20歳そこらの私にとっては初めての行動でした。

5分間の面談というのは、短くて長いものです。対話する相手は、自己開示が得意な学生もいれば、頑なに課題以外のことを話さない学生もいたり、はたまた何もビジョンが見えていない学生もいたりと様々です。
その時間の中で、私は彼・彼女らから「最終制作物のビジョン」「つまずきポイント」を聞き出し、それに対してアドバイスをしていかねばなりません。

そこで心がけたのが「寄り添う」・「引き出す」でした。
TAという立場ではなく、相談しやすい先輩として姉のような姿勢で、彼・彼女らに「寄り添う」姿勢を。課題の話だけじゃなく、「授業外に何をしてる?」「今、何にはまってる?」「家族構成は?」「一人暮らし?」「高校時代はどんな子だったの?」そんなたわいない会話で彼・彼女らが本来持ち合わせている個性や思考方法を「引き出す」こと。

このような姿勢で接することで新たなアイデアが生まれたり、彼・彼女らがつまづいていた事柄が言語化されていきました。
さらに対話を重ねることや話しながらのアイデアスケッチのやりとりなど、実際に手を動かすことで解決していくことが出来たのです。

*****

「寄り添う」・「引き出す」だ!』と当時の私は意識してません。改めて振り返るとそうだなぁと思うぐらいで、当時はガムシャラで体当たりでした。
ただ「私と対話することで一筋の光を見つけるなり、元々の彼・彼女らが持っている原石を磨けるような時間にしていこう。私はあくまでもサポーター。彼・彼女らに自分の意見や思想を押し付けてはいけない。」という思いは持って接していたように思います。
そういった考え・姿勢もあってか、彼・彼女らと話すことで私の中にもどんどんと新しい視点や考え方が増えていきました。
お互いがプラスになる、win-winな時間を生み出せたと言えると思います。

当時の学生達は、有り難いことに今でも仲良く慕ってくれる子が多くて、最近会う機会は減りましたが、たまに会うだけで凄く嬉しくなってしまう特別な後輩達で生徒だなぁ、なんて思っています。


『教え』とは一方的でなく双方的な状態が健全なものではないか

『教える』場の内容によっては、一方的な講義形式のものもありますが、私は双方的な状態が好ましく、健全であるように感じています。

先のTA体験もそうですが、先生と生徒の間で会話のキャッチボールが起こるからこそ、生まれてくるものや互いに教わることがたくさんあると考えています。一方的な知識の押し付けが『教え』ではなく、双方的な気付き・学びこそが『教え』ではないかと思うのです。

こう考えるのは、私自身が一方的な時間が苦手で、双方的に気付き考え合う時間が楽しいと感じているから、というのもあります。そして何より、両親の授業姿勢の影響はあるように思います。

父は高校生相手に『書』を『教え』ていますし、母は特別支援が必要な子ども達を相手に『教え』ています。どちらも一方的な授業展開をすることはなく、生徒も共に行動をしてくれなければ成り立たない双方的な授業構成です。
父を例にしてみると、もちろん古典的な『書』の技法や知識を『教える』時は一方的ですが、生徒に好きなアーティストの歌詞を書かせたり、紙を染めて自分が感じたままに書かせるようなこともさせています。
それをする意を父に聞いたことがあるのですが、

「生徒から最新の新しい価値観や物の見方を学んでいるし、何より自分には無い見方や引き出しを生徒から得ている。教えているのは僕だけど、生徒から教えられることの方に価値があるよ。そういう授業の方が面白いし楽しい時間だ。」

と解が帰ってきた時に、「私、この人の娘だ!」と強く思ったのを覚えています。実際、父の授業は毎年生徒の満足度が高く、彼自身も「『書』を好きにさせるというよりも『書く』という行為の大事さ、その中に様々なものが含まれていることを知って欲しい」という姿勢で授業をしています。

『教える』側もそのような姿勢で場を楽しむことで、受講者側も真に楽しみ、彼・彼女らが持ち合わせている以上のものを引き出せるのだ、と私はそう思いますし、自分も楽しんだりワクワクする心は消さずにやっていきたいなと思います。


さいごに

このタイミングでこれを記しておきたかったのは、ちょうど10年前、大学1年生の頃に教わった先生のことを思い出したからです。

その先生は、授業の出欠確認の際に「元気?飯食った??」と必ず生徒1人1人に聞くという強制的な会話のキャッチボールを生み出していました。突然の問いかけに生徒は戸惑いますが、「はい!食べました。」「ぁ、まだ食べてないんですよ...」なんて返してしまう。それだけで印象に残る先生です。

何故そんなことをするのかと聞いてみると、

「授業の内容によっては、生徒全員と話すことは難しいじゃん。出欠確認は、単調作業じゃなくて皆と話すチャンスなんだよ。名前を読んで『はい』と返すより、『うどん食べました!』『ダイエット中で食べてない』ですの方が新しい何かが生まれる。そうやって新しいコミュニケーション生み出していくことがここで学ぶことにも繋がっていると思うんだよね。」

なんて、飲みの席でお話されていたように覚えています。今は、教壇に立っておられないのが残念ですが、何よりも誰よりも『教える』場を楽しんでいた人のように思いますし、私達にとっては先生であり、少し年上のお兄さんのような存在でした。
「私ももし何かしらで『教える』ことがあれば、こんな風に楽しんでやっていきたいな〜」と思ったように記憶しています。

そんな熱く面白い先生や私の両親のように場を楽しむことも大切なことです。『教える』側が楽しめば、それは受講者側に伝わります。

私自身は、通年で何かを教えるにはスキルも知識もほど遠い人間ですが、それでもそんな『教える』場に関わった時は、引き続き過去の自分が積んだ経験や体験を生かしながら、新たな取り組み方や心がけをしていけたら良いなと考えています。後、たまに思い出した時にこうして自分の過去を元に新しく記していきたいなとも考えます。

もし、この記事を読んでご興味いただいた方は、kuraruk.tayumi☆gmail.com(☆→@)までご連絡ください。
何か私がご協力出来ることがあれば、是非とも。

最後に2年前の京都精華大学さんの授業での私を置いておきます。
出来る風に撮っていただいてて、プロのカメラマンはやっぱり違うなと。
今は、髪はこれよりも伸びまくってる(前髪は短いけど人生最長)し、入院・手術をして生死を彷徨う(大げさだけどしんどかった!今、生きてるのが嬉しい!!)という人生経験も重ねて、体重の前後が激しいです!3食食べるのって、本当に大事ですね!ごはんが美味しい!!!
というわけでね。現在は元気にやっております。

いただいたサポートで本を買ったり、新しい体験をするための積み重ねにしていこうと思います。