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倉敷市天城の高越基治さんによる一輪挿し

倉敷市天城の、ほっと家具工房、高越基治さんによる一対の一輪挿しです(撮影のために、水を入れるガラスの試験管は、はずしてあります)。

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高越基治さんの一輪挿し

単独ではなくて、一対を並べてあるのには、意味があって、元々は同じ角材から切り出されたもので、いわば血を分けた兄弟と言える存在だからです。

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ところが、凹面なっているほうの一輪挿しは、全身にいわゆるキズがあります。すなわち、節や木目の乱れが、ざっと見ただけで8カ所もあります。

一方凸面になっているほうは、キズがまったくありません。元の角材にあったキズはすべて凹面になっているほうが受け継いだことになります。

綺麗なのは、まったくキズのない凸面になっている方ですが、キズを受け継いだ凹面の方には、その欠点にとても味わいがあります。美しさでは、両方、同等のがあると言えます。

木の命を無駄にせずに、どちらも慈しんで生かし切る、高越さんの木に対するやさしさが表れた作品です。

その結果、陰と陽、表と裏、光と影、昼と夜、という対になって支え合う関係ができました。


追伸

能楽師の安田 登さんは、その著書*の中で、ナイトクラブでピアノ演奏の仕事をしていた頃を振り返り、「夜の世界」で働く人たちについて、次のような主旨のことを述べています。

夜の世界に集まる人達は、どこかに影を抱えているというか、人生に後ろめたさを感じていた。男性でも女性でも、才能がありながら、訳ありで表舞台にはいられなくなった人たちであった。人は、表舞台で順調に過ごしているときは、自分が抱えている欠落に気付かない。それが顕在化するのは何かしでかしてしまったとき、あるいは、理屈では説明不可能な悲劇と遭遇してしまった時である。夜の世界にいて、己の欠落を自覚している人たちは、どこもカッコをつけようとするところがないというか、カッコはつけているもののそれが見え見えで、ポーズの裏側に深い悲しみが感じられる、ということでした。

「夜の世界」の人たちと「昼間の世界」の人たち、あるいは、「裏舞台」の人たちと「表舞台」の人たちは、元は同じで、別れて対になりました。「夜の世界」、あるいは、「裏舞台」に生きる人たちは、多くのキズを負った、凹面の一輪挿しに通じる味わい深さがあるのではないか、と想像しました。

*安田 登・著:あわいの力. ミシマ社, 2014. P77-84


番外編

備前焼は、釉薬を使わず、高温で焼成します。備前焼の窯焚には松割木が用いられ、10日間ほど焼き続けられます。この時の炎や灰の動きによって焼き色や景色が決まります。

IMG_2007のコピー

画像の右側の花器は、小橋順明プロデュースによる花器です。

黒と黄土色と灰色の発色が、アメのような光沢を帯びて、くっきりと現れて、器の存在感を強めています。

倉敷一陽窯の主人、木村さんによれば、この器は窯焚きの時に、焚き場所に近い位置に置かれていたので、直接、炎に触れて十二分に焼かれ、また、たっぷりと灰が降りかかり、さらに、足下に灰が厚く降り積もったのだろう、とのことでした。人に喩えれば、生まれついて恵まれた環境に育った、いわばエリートと言えます。

花器として多くの人々に愛でられる優れた美術工芸品となります。

画像の左側の器は、恒枝直豆(つねき・なおと)さんによる花器です。

全体的に発色が薄く、のっぺいとしていて、存在感が薄い器です。まるで、現実の物ではなく、異界からやって来た幻の器の様です。

木村さんのお話を拡張すると、この器は窯の隅に置かれ、他の器によって隠れてしまう形で、炎や灰にほとんど触れなかったと考えられます。人に喩えるなら、社会経済的に恵まれない環境に生まれ、十分な教育の機会が与えられず、独学で道を切り拓く人の様です。

このようにして表現された直豆さんの器は、普段、私たちが意識することがない、「存在とは何か」という根源的な問いを問い返してくる、アート性を持ちます。

追記

恒枝直豆さんは、倉敷美観地の倉敷川沿いに店を構える、恒枝陶芸のご主人の実弟なのだそうです。

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弟の直豆さんは、苦労の末に、初代として備前焼の窯を開かれたのだそうです。ご主人は、そんな弟を誇りに思っているとのことでした。

お店の品揃えは、主人の目利きによって、実力のある作家の挑戦的な作品が取りそろえられています。筆者の直観が正しければ、中に、とんでもない掘り出し物がある感じでした。

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