見出し画像

しなやかに生きた人 今川氏真(いまがわ うじざね)

この世の中には、志を立て、初心を貫徹し大業を成す人がいます。そのような人は、「大黒柱」のようなイメージでしょうか。

IMG_1745のコピー
大黒柱:池田動物園・岡山民俗館展示
岡山県新見市金附にあった民家をそのまま移築したもの

一方で自らの意志で何かを成そうと思わない人もいます。そのような人は、遭遇した、あるいは、与えられた状況に、しなやかに対応して生きます。

今川氏真は、今川義元の嫡男です。1560年、父、今川義元が桶狭間の戦いで織田信長の軍勢に討ち取られたため、急遽、後継者の立場に立たされます。懸命に努力し、領国内の反乱を収め、領国の安定のための施策が軌道に乗った矢先、武田信玄と徳川家康によって領国を挟撃されます。

氏真は、籠城の末、和睦して、妻の実家であった小田原・北条氏の領地に落ち延びました。桶狭間の戦いからわずか8年で、名門だった今川氏が滅亡したため、後に暗愚とのレッテルを貼られてしまいます。さらにその後、北条氏の領地から脱出し、敵であった家康を頼り、配下の客将となることも恥とはしませんでした。

もはや今川家再興の道を望まず、京都に移り住み、得意であった和歌と蹴鞠(けまり)を生かして、文化の道に専念する生き方を選び、公家との交友関係を結びます。1575年、織田信長に謁見し、信長の前で公家たちと蹴鞠を披露しています。それは、後世の価値観からすれば、父の仇の前で見世物になったということで、「武士らしくない」と、評判を貶められる結果となりました。

しかし、氏真が披露した蹴鞠の評判は素晴らしく、公家らに引っ張りだことなり、一気に人脈が拡がり、やがて、朝廷と徳川家を繋ぐ役割を担うことになります。それは、「大黒柱」のイメージに対して、下駄の鼻緒の、足の指ではさむ部分である「前緒」のイメージです。

「前緒」は短く小さな紐に過ぎませんが、鼻緒の左右両側の「横緒」の部分を結びつけて、「下駄の台座」に固定する重要な役割を担っています。左右の「横緒」を「公家」と「武家」であるとみなせば、氏真は両者を結びつけて、天下国家に固定するフィクサー(調停役)の役目です。

画像2
下駄の鼻緒:足の指ではさむ部分が「前緒」である。
「前緒」は、左右両側の「横緒」を結びつけて、下駄の台座に固定している。

氏真は、江戸という太平の世を迎え、1615年に77歳の長寿で亡くなっています。

今川氏と覇を争った武田氏は1582年に滅亡し、その直後に、天下統一を目前にして、本能寺の変で織田信長が自害しました。小田原・北条氏は豊臣秀吉の小田原攻めにより1590年に滅亡しました。豊臣秀吉は、1598年に没し、1615年、大坂夏の陣で豊臣氏は滅亡します。

画像3
織田信長の塚(京都・本能寺境内)

氏真の家系は、徳川幕府で朝廷と折衝をする家として存続し、明治維新まで生き残りました。


参考文献
1)大石泰文:今川氏滅亡. 角川選書604, KADOKAWA, 2019, p177-239
2)外川 淳:しぶとい戦国武将伝. 河出書房新社, 2004, p33-40
3)秋山香乃:氏真、寂たり. 静岡新聞社. 2019
4)赤木俊介:天下を汝に 戦国外交の雄・今川氏真. 新潮社, 1991
*表題画像は、文献1)P179による。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?