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悔しいという思いは、まだ

悔しくて泣いた経験はあるだろうか。


多くの元高校球児の方々は経験があるのではないだろうか。

ちなみに私は泣かなったし、泣かなかった。
そしてベンチに入った3年生で泣いていた人の方が少なかったことを覚えている。

淡々と道具を片付けてグラウンドの外に出た覚えがある。

試合後3年生全員で撮った集合写真

そして始まるミーティング。「もう終わるんだ」という実感もあまり湧かないまま監督の話を聞いていた。何を言っていたかは覚えてない。

そのあとにキャプテンが最後の一言。
記憶が正しければキャプテンは、あんまりみんながけろっとしてるもんだから泣かせに行くような言葉をわざと選んで話したんだとか。

それくらいキャプテンも冷静だったみたい。

中にはめちゃくちゃ泣いていた後輩も居た。

そして試合を戦う自分たちよりも惜しくもメンバーに入ることのできなかった3年生たちの方が悲しみの涙を浮かべていた。

結局わたしはその日に泣くことはできなかった。


そこの違いはどこにあるのだろうか。おそらく答えは出ないが、私の出した結論は余裕があるかどうかだ。

その他にも、試合にどれだけ責任を持って臨んだか、そしてそれが不甲斐ない結果に終わってしまった時に涙が溢れてくるのかもしれない。

しかし当時の私は「チームのために。」など考える余裕など無かった。これまでのnoteを読んでいる方や、自分のことを知っている方ならお分かりだと思うのだが、少年野球から野球を始めて、公式戦に初めて出たのは高校3年の春だ。

そんな経験値ほぼゼロの私が「チームのために。」などと思えるはずもない。常に頭の中は「自分が、」だ。

だから打てなければ勝っても悔しいし、打ったら負けても嬉しい。


そして最後の夏が終わった日は、3点差を終盤においつかれ、延長11回にサヨナラ負けしたのだが、試合には出なかった。だから悔しいと言う感情よりも「なぜ俺を出さなかったのか?」ということが頭を巡っていた。


その日からもう6年が経とうとしている。

最近はやはり試合に負けるのは悔しい。BCリーグで過ごした2年間は勝った試合よりも負けた試合の方が圧倒的に多い。

それでも本当に悔しくてたまらなかった試合は思い出せるだけでは2試合だろう。

高知の時も合わせると全部で3試合。

当時高知ファイティングドッグスに所属していた2018年。シーズン最終戦の試合は自分の無力さを突きつけられ、そのシーズンのラストバッターとなった。

坊ちゃんスタジアムにて

この時は20歳。相手の投手は当時愛媛のクインティン投手。149km/hのストレートをファウル。その後は2球スライダーで三球三振でした。

149km/hの球を見たのはその時が初めてでした。
この時感じたことはとても強く印象に残っていて、「ファウルにはなったから当たらないわけでもないし、慣れれば打てるだろう。しかし、これにスライダーやフォークなどを混ぜられたら今のままじゃ無理だな」

と強く刻まれた試合だった。スイングを見直す時にはこの時のことはもちろん、他にもこれまで対戦した高いレベルの投手を打てるかどうか。と言う意識を持ってスイングを見直している。

そして2020年は4点差を終盤追いつかれ、最終回にサヨナラホームラン。2021年も最終回に同点に3点差を追いつかれて同点。そして2年連続で目の前で相手が優勝を決める瞬間を目の当たりにした。

どちらとも試合に出ていた。しかし、どちらとも不甲斐ない結果で終わった。

だからこそ悔しかった。どちらの年も優勝の可能性はゼロだった。だから優勝できなかったことが悔しいのではないかもしれないが、少なくとも目の前で味わわれた優勝というものはどちらもとても輝いて見えた。そして、優勝できなかったことや負けたことを強く突きつけられた試合だった。


「負けて悔しくないのか」という質問を高校の時に良くされた気がする。

おそらくこの質問をすると言うことはその質問をした監督は「負けて悔しかった」のだろう。

しかし、少なからず私はほとんど悔しいという気持ちは持ち合わせていなかった。

(自分が出てない試合で負けて何が悔しいのだろう。自分が打った試合で負けて何が悔しいのだろう)

そんなことばかり考えていた。


しかし2020年から私の中で何かが変わった。
それまで一度もレギュラーになったことのなかった私は、レギュラーとは言えないが毎試合スタメンで試合に出た。


ピッチャーとは違い野手が試合を壊してしまったり、自分のせいで、というようなことはほぼ無い。

しかし、「自分のせいで負けた」と感じる試合もいくつかあった。

試合に出る責任というのはこのことかと。自分のワンプレーワンプレーが試合を作っているという実感を野球人生12年目にして初めて抱いた。


この頃には自分が活躍した試合で引き分けたり、負けたりしたら悔しいと思うことも増えた。

そして何もかも上手くいかなかった試合で負けた時には自分が打って負けた時の数倍悔しかった。


翌年の福井では試合に出れないことに悔しさを覚えた。これまでは「試合に出れなくて当たり前。」どこからのどこかで思っていたのだろう。しかしこの年は試合に出れなくて悔しかった。チャンスを掴むことに1番貪欲だったと思う。


シーズン中盤からはほとんどの試合でスタメンで出た。この時には勝手ながら「自分が試合をつくる」という自覚も芽生えてきた。慢心とはまた違う感覚で、とても責任を感じた。

だから打った試合でも「もっとこうできた。」と思えるようになった。


「悔しい」という思いはなぜ湧いてくるのか。


チームの中心選手としての自覚が芽生えてこないと難しいのでは無いかというのが私の考える一つの仮説だ。

俺が打って勝つ。俺が投げて勝つ。

自分自身との戦いやチーム内での競争に使うエネルギーが多いと試合を自らの手で動かすということや、相手との勝負に使うエネルギーが足りない。


だから、本当の意味でその試合の当事者にならない限り「試合に負けて悔しい」という思いは湧きにくいのでは無いだろうか。

もちろん自分の結果が出ないのはいつだって悔しい。


しかし、自分が打てなくてもチームの勝利を喜べた時に1番自分自身の成長を実感した。


こころに余裕が無ければ、それどころではない。悔しいと思える余裕も成長を実感する余裕もない。


物事にはおおよそ段階があると思う。だから今悔しいと思えないのはまだその段階ではなく、他に集中すべきものがあるからかも…?




なんか終わり方を見失った。気づけば2,500文字を超えていたし、ここ最近のnoteで1番言語化が難しかった。だからまとまりのない文章かもです。それでも最後まで読み進めていただいたあなた。ありがとうございました。

悔しいと思えないことはいかがなものか?と自分に問いかけたこともあったけど、それの自分なりの答えが「まだそこまでレベル上がってなかった」でした。

試合をこなすのでいっぱいいっぱいの状態では勝負に集中できなかったりする。その状態でベストなパフォーマンスは出しにくいし、冷静に自分を見ることはできないよね。

前までは知らなかった境地を知ることができたし、今もまだ知らない境地があると考えるとなんだかワクワクするような怖いような。

でも怖いと思うのは足を止めてしまうから。思い切って飛び込んでみようと思う。


もっともっと人間レベルを上げていきやしょう。


今日も最後まで読んで頂きありがとうございます。
また次回もよろしくお願いします。




藤原 蔵太





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