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ソレハボクニハデキナインダヨネ、と淡々と告げられた

だからね、それは無理なんだよ、夫は予想外のことを告げた。そういう概念が全くなく不意打ちを食らった私。夫は、咄嗟にそう思った私を見透かしたかのような目をしている。

薬缶で沸かして濃厚に煮出した麦茶を愛飲するので

冷たい麦茶がほしくなる6月から9月下旬頃まで、我が家の冷蔵庫には必ずガラス製の麦茶ボトルが入っている。息子がまだ一緒にいた頃は2本用意していた。息子はがぶ飲みするので1本では足りない。しかし、彼もそばを離れた今は、2人で約2リットル1本で事足りている。

ボトルの素材はガラス製にしている。めんどくさがりの私は、薬缶で沸騰させたお茶を冷ましきらずに入れてしまいたい。冷ましきってからの方がよいのは承知だが、それより早く冷蔵庫に入れておきたい。とにかく早く、冷蔵庫で冷やしたい。

だからまあいいか、と温くなったなと感じた時点で冷茶ボトルに入れている。少しくらい温度が高くても、ガラス製なら大丈夫という理由だけなのだが、買いかえても同じようなガラスのボトルを選ぶ。究極に選ぶのが面倒なときは、そっくり同じものをペアであつらえていた。蓋が入れ替わっても規格が同じなのでピタリと収まる。無駄がない。

一日冷蔵庫に置かれた麦茶はキンキンに冷えている。麦茶は1日もあれば飲みきってしまう。だからすぐ空になるはずなのだが、麦茶はいつもたっぷりとボトルにある。何か見落としてることがあるはずだ。と思いつつも、冷えた麦茶が飲めればいいか、で自分の中でうやむやにしていた。

ある日、麦茶の味が落ちていることに気づいた。なんだか、おいしくない。夕べ沸かしたばかりなのに、何だ、この味は。もっと渋みのある麦の味がするはずなのに。私は濃い麦茶が好きなので、いつも真っ黒になるくらい煮出している。

しかし、今飲んでいるのはあまりにも、ひどい。とてもじっくりと煮出した麦茶の味とは思えない。

おかしい。

それ以上飲んでいられなかったので、もったいないと思ったがシンクに麦茶を流した。そして、ボトルの底を見て気がついた。透明なはずのガラスの底面が茶渋で茶色くなっていた。色濃く。

そもそもなぜボトルの麦茶の味が変わるのか

茶渋。これが麦茶の味を変えた原因なのか。しかし、茶渋だけであそこまで味が変わるものだろうか。またまた、疑問が出てくる。そういえば、ボトルの麦茶が半分以下になると、継ぎ足すのは夫だ。

夫も麦茶をよく飲むので、私が沸かして置いたものを入れてくれる。いつかのことだが、半分以下に減った麦茶を継ぎ足そうとしていた。そのときは、私がボトルを洗ったばかりだったので、まあいいかと継ぎ足してもらった。

しかしあるとき、継ぎ足そうとしているボトルを確認すると、底面が茶渋だらけになっている。これはいくら何でも、と思ったので夫にストップをかけた。今残っている麦茶はコップに移し替えてボトルを洗ってからにしてほしい、と。

夫は不機嫌にもならず、残りの麦茶をコップに移し替え、シンクでボトルを洗っていた。新しくボトルに入った麦茶はいつもの味だった。なので、それ以上深く追求するはずもなく、夫は夫で麦茶入れるのは入れるのは自分、とばかりに頻繁に入れるようになった。

それからは、ボトルの残りの麦茶をコップに移してからボトルを洗い、新しい麦茶を入れるようになった夫である。私も、一手間減るわけだしそれ以上付け足すこともないごく簡単な麦茶を作る作業であるし、というわけでしばらく夫にお任せでいた。

つまり積み重なった茶渋により、新しい麦茶の味が変化していたわけである。

「私の洗うと夫の洗う」は違っていた

麦茶の味が決定的にまずい。しかも、ボトルの底は真っ茶色だ。茶渋で汚れきっている。夫はいつも洗っているのに、なぜここまで汚れるのだ。私は、せっかく冷えて飲み頃になった麦茶を捨てたのが悔しくて、夫がテレビをのんきに見ているダイニングへ向かった。

「これ見て」とボトルの底を見せた。夫は私の方を向き、ボトルを見た。しかし、一体何を言っているんだか?それよりテレビが見たいんだけどね、という表情をしている。

「なんでボトルがこんなに汚れてるの。洗ってくれてるのに何で汚れてるのかわからないんだけど」私が続ける。「何か問題あったの」と夫。

「麦茶飲めないほどひどい味だったんだけどね。ボトルきれいなはずでしょ。何でこんなに汚れてるのか。洗ってるんだよね?」と少しばかり強めに出た。

「ああ。洗ってるよ、確かに」と夫はテレビをチラチラ見ながら言った。「じゃあ、ここまで汚れる理由がわからないし」

「洗ってるよ、水で流してるからきれいでしょ」きれいに洗えているはずなのにそちらこそ何を言っているんだか、みたいな調子で夫は続けた。

もしかして、さらっと蛇口の流水で流しているだけなのか。やっと、茶渋が染みついたような麦茶の味の理由が説けた。そうだったのか。もしかして、スポンジで洗ってはいないのか?じゃあ、スポンジを使わないでボトル洗ってるんだね、と確認してみた。

「そう、流水だからきれいになるでしょ、麦茶なんだから」と半ば予想通りの答えが返ってきた。ああ、お茶は水ですすぐだけできれいになるって思ってる?もしかしてそんなイメージがあったのかと、ようやく気づいた。

「お茶やコーヒーは流水ではきれいにならないんだよ。よくコップに茶渋ついてるでしょ。あれと同じことがこのボトルに起きてるわけ」と言ってみる。

「いや、大丈夫でしょ」夫は即答した。これではっきりした。夫は当然スポンジで洗っていると私が思い込んでいただけなのだ。

しかし、夫の「ボトルを洗う」はスポンジ使用で洗うのではなく、流水ですすぐということ。これが彼にとってのボトルを「洗う」ということ。同じ「洗う」という言葉でも経験や考え方によって解釈と行動が違う、ということなのだと初めて理解したのである。

同じ言葉だけど、背景が違うと行動も違う。だから伝えるときには「ボトルの底には茶渋が沈殿してしまう。茶渋は流水では取りきれないので、できたらスポンジで洗ってほしいのだけど」と、その行動をお願いする根拠を伝えなければいけなかったのだ。そこで初めて「ボトルを洗う」行動について我が家の共通認識ができるというわけだが。まあ、私の洗ってほしい理想の形を伝えているだけともいえる。

当然スポンジで洗っていると思い込んでいただけなのだ。私の祖母がしょっちゅう「見て覚えなさい」と言っていたので、無意識的に夫もそうだろうと思い込み、だからスポンジで洗ってくれているのだろう、と。しかし、実際は違ったわけである。

ソレハボクニハムリナンダヨネ

事態がやっと呑み込めたので、改めて夫にお願いした。ボトル類を洗う時も、スポンジを使って洗ってほしい。理由は汚れが累積したボトルに麦茶を継ぎ足すと味がおかしなことになってしまう。

と誠心誠意伝えたつもりだったが。続く夫の返答はまたもや予想外だった。

「スポンジで洗うの?あーそれは僕には無理だね」と夫は軽く言った。無理?なぜ?

「だって、このボトルには僕の手は大きすぎるから入らないんだよ」とゆっくりと続けた。入らない、手が?ここにきてやっと夫の行動の理由が分かった。

ボトルに手が入らないから、今ある平たいボトル用スポンジで洗えなかったのだ。私は当たり前に入るから、そういう可能性があることを思いつきもしなかった。とりあえず、現状でできる範囲のことをしてくれてたわけである。

ある意味異文化が混じり合っているのが一つの家かもしれない

私の手はボトルに入るのでスポンジで中を洗うことができる。しかし、華奢だと思っていた夫の手は思いのほか大きかったらしく、ボトルの中に手は入らない。

だけど、洗ってほしいという私の希望を、流水ですすぐという方法で実現してくれていた。でも、それでは茶渋はきれいにならないのだが、麦茶の味にはこだわりのない夫には不都合ではなかった。そして、茶渋は私が気づいたときにスポンジで洗っていたから、私も麦茶の味は気になってはいなかった。

今回たまたま麦茶の味が変わるほどの汚れだったので、初めて夫に話を聞いて夫側がどういう状況なのか初めて私が理解できた、ということだろうか。

違う家庭で育ち、習慣も背景も何もかも違う。同じ家庭で育っていたとしても、感じることやこだわりは違う。ひとりひとり全く違う。だから同じ言葉を使っても受け取る側の意味が違ってくることも当たり前なのだ。

いつもそのことを忘れないでいられればいいけれど、現実は時間や目の前のことに追われて言葉で伝えるとすべてが伝わっていると錯覚してしまう。そしてそれができていないと不満に思ってしまうけれど、でも相手からすればそれはできていることだったりする。

今回のことで、いかに自分サイドで物事を見ていたか気づくことができた。夫側の視点を想像してみる、考えてみるきっかけとなった出来事だ。でも、毎日の生活は現実。目の前のタスクをこなすことで精一杯。

と言い訳ををしつつも、夫にボトルを洗ってもらいたい私は、スティックタイプのスポンジを購入した。もしかして、このスポンジが活躍するのはまた暑い季節が巡ってくるときかもしれないけれど。












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