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14章 レシピが見つからない!?

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 蔵子は高校時代の部活のOG会に一〇年ぶりに参加した。
日曜の昼間、中華料理店の二階で十八人が集まった。今回の幹事は一学年上の山岸先輩で、どうしても出て来いと言われたからだ。学生時代の部活の先輩後輩の関係はいくつになっても、変わらない。先輩は先輩で、理屈抜きに逆らえない。だから仕方なく参加した。

 円卓について、見回しても誰が誰かわからなかった。同学年の友人たちとは今でも連絡を取り合っているが、皆、欠席だった。親の介護、子供の受験とうまい言い訳を考えたらしい。
 後ろから肩を叩かれて振り返ると、丸い顔があった。
「蔵子、元気そうね」
あの、と名前が出て来ない蔵子に、「大和田美知よ。二つ上のミッチーよ。思い出した?」
え、ミッチー先輩? こんなに太ってた? 背丈は昔と変わらないけど、厚みは倍になっているのでは?
「今回は幹事がヤマちゃんだから、蔵子を引っ張って来てって頼んだの」
どうして? という言葉を呑みこんだ蔵子にお構いなく、美知は隣に座った。
 幹事の挨拶と、元顧問の先生が入院中で参加できないことが告げられ食事会が始まった。
蔵子の左隣は空席で、どうやら山岸が誰もそこには座るなと釘を刺したらしい。
中年の女が十八人も集まった食事会というものがどれほど…であるかは、参加してみないとわからない。

 前菜が終わり、ふかひれのスープ、エビと貝柱のXO醤炒めと、コースが進んでも、美知は要件を切り出さず、小皿に山盛りのエビと貝柱をあっという間に平らげた。
 これだけ食べれば体重も増えるはずだと思いながら、蔵子は美知のグラスに桂花陳酒を注ぎ様子をうかがった。食べながらも、美知はメニューカードになにやら書き込みをしている。
「先輩、何を書いておられるのですか」
「あ、蔵子は知らなかったわね。わたしは料理研究家なの。お店の食べ歩きの記事も投稿しているから、そのためにメモをしているの」
 とても会話にはならなかった。仕方ないから食べることに専念しようと、蔵子は北京ダック用の皮に味噌をぬり始めた。
「ところで蔵子、この後、あいてる?」
はい、今日は休みですからと蔵子が言い終わらないうちに、美知はじゃあいいわねと、ひとりで決めてしまった。

 何がいいのだろう? ミッチー先輩は変わらないなと思いながら、料理研究家とはいえ、これは食べすぎでしょう。デザートは別腹というが、さすがにもう食べられない。蔵子が手をつけていないマンゴープリンを見て、美知は食べないのと聞いた。
「これ以上食べると、スカートのホックが吹っ飛びます」
「蔵子は修行が足りないわね。こういう時にはね、ウエストはゴム入りの洋服を着てくるものよ」と、美知はプリーツスカートのウエストを引っ張って見せた。

 三駅離れた仕事場へ着くまでの間、美知は蔵子の仕事についてあれこれ尋ねた。蔵子にも聞きたいことはたくさんあったが、質問に答えるのが精いっぱいで口をはさむ隙はなかった。
 美知の仕事場は、駅前商店街のはずれにある5階建てのマンションだった。
 エレベーターで三階に上がり三〇二号室の前に立つと、美知が眉間にしわを寄せて、蔵子、覚悟はいい? と聞いた。
おぼろげながら事態を把握しつつ、蔵子はうなずいた。

 玄関から奥の部屋までの廊下にも、床に物が積み上げてあり、かろうじて空いたすき間をぬって飛び石を飛ぶように進んだ。先輩は毎日こんな飛び石をしているのだろうか。いや、慣れると体が勝手に反応するのかもしれない。
 リビングも、本棚や二人掛けのソファーがあるが、そこにも本やファイルや切り抜き、請求書などが散乱し、ミルフィーヌパイのように層をなしていた。
「ご覧の通りよ。もう何が何だか分からない状態なの。レシピを探そうと思っても、どこに紛れ込んだかわからない。探しているうちに、どんどん時間がたって。それでも、見つかればいいほうで、見つからないことも多いの。そこでまた図書館に行ったり、本を買ったりして悪循環。そろそろアシスタントを雇いたいと思っているけど、片付けないと仕事もしてもらえないし…」
 美知は声をあげて泣き出した。

 高校一年生だった蔵子にとって、三年生の美知は大人に見え、ただただ怖い先輩であり、声をあげて泣く姿など見たこともなかった。
「仕事をしている時間より、物を探している時間のほうが長いのではないですか」
そうなのよと、ようやく落ち着いた美知は顔をあげて答えた。
「パソコンは使っておられます?」
「ノートパソコンがどこかに埋まっているの」
「箱がたくさんありますけど、中身は本ですか」
「ううん、食器とか台所用品。年に一度は海外に行って、向うの料理を学び、本や台所用品を買ってくるの」
 先輩もそれなりに努力をしている。ただ食べているだけではない、それは重要なことだ。
「海外で買ってきたものが全部箱の中ですか」
 美知はおずおずとうなずいた。OB会で中華料理を食べていた時の勢いはまったくなかった。
「食器はある程度あれば足りるのではないですか」
「実は『ミッチーのぐるぐるクッキング』というユーチューブの料理番組を作ろうと思ってね。それにはレシピと色々食器がいるでしょう。だから…」
 言い訳するように美知は続けた。
「ぐるぐるクッキングの構想は一〇年前からあってね。ぐるはグルメのグルで、レシピだってたくさんあるし、食器もそろえたの。それで、ユーチューブで料理を作って、本を出して、テレビに出演して、有名になって…」
 だんだん声が小さくなった。

 一〇年前に料理を発信するユーチューバーになっていたら、今頃はテレビに出ていたかもしれない。あくまで、かもしれないだが…一〇年の月日がどれほどの意味を持つのか先輩は理解しているのだろうか。しかし、この状態でよく何年も仕事をしていたものだと、妙な感心をした。仕事柄たくさんのお宅を訪れたが、これほど紙類が多いのは、某大学の教授以来だ。

「片付けようと思われたきっかけは何ですか」
 蔵子の仕事にも関わることなので、そのことに一番興味が湧いた。
「ペルー料理のレシピがいるの」
「この中にあるのですか」
「そうなの。一週間後に『アンデスの夕べ』という催しがあって、フォルクローレの演奏とペルー料理の試食会があるの」
「もしかして…」
「その、もしかよ。だから蔵子に来てもらったの」
 急に愛想笑いをしながら美知は続けた。
「なんとかしようと、この前も女性雑誌の『片付けられない女特集』を読んだの。そこには、部屋に物がいっぱいあるのはカオスを表していると書いてあって、このカオスは経済状態にまで影響を及ぼすから、お金が入ってこないのよ。仕事がうまくいかないのはこのせいだと…」

 仕事がうまくいかないのを、床に物が置いてあるせいにするとは…。
「それまでは片付けようとは思われなかったのですか」
きつい調子にならないように気をつけたつもりだったが、美知は明らかにむっとした。
「失礼ね。毎日のように思ってたわ。だけど、どこから片づければよいかわからなくて。だって、紙の山を移動しようにも空間はないし、切り抜きは捨てられないし…」
「ところで、先輩はなぜわたしに?」
「始めは、あかの他人の方がいいと思ったのよ。恥をかくのは一時のことだから。だけど、よく考えてみると、その人が『家政婦は見た』みたいに、誰かにしゃべって、それが週刊誌に載るなんてこともありうるでしょ」
それは週刊誌のネタになるほどの有名人になった時の話だろう。今のところそんな心配は皆無だ。胸の内とは反対に、蔵子は、そうですねと相槌をうった。
「山岸から、蔵子の仕事のことは聞いていたの。だからね、蔵子なら秘密を守ってくれるし、安くしてくれるでしょ」
美知は甘えるような声音だったが、却ってすごみがあった。
「先輩でなくても、仕事をしたお宅のことを、あれこれ吹聴することは一切ありませんから」
美知はわかっているという風に蔵子の腕を叩いた。

 力は衰えてないし、性格も変わらない、あざにならなきゃいいけどと、ブラウスの上から腕をさすりながら、蔵子はこれからどうするかを考えた。
「それでは、明日からかかりましょうか」
「どうして? 今すぐ取りかかってもらえると思ったのに」
 美知のこめかみの血管がぴくぴくしている。
「ミッチー先輩、それは無理です。片付けにあたって準備もありますし、見積書も出しますので」
「見積書?」
 料理研究家に見積書は存在しないのだろうか。
それとも、これは先輩後輩のサービスだと思っているのだろうか。仕事をしている人間には、予定があるということを想像できないのだろうか。
「そうです。まさか、先輩は無料で、なんて考えておられませんよね」
「そ、そこまでは、考えてないけど…」
 しどろもどろの口調は、言葉とは反対の意思を表している。
「ところで、キッチンはどうなっていますか」
 キッチンもわずかなスペースしか空いておらず、鍋や食器が積まれていた。ここで、まともな料理ができるのかという蔵子の思いを読んだかのように、美知はわたしはプロだからねと胸をはった。
 レストランの厨房を見たことがないのですかという言葉が喉まで出かかったが、かろうじて抑えた。やはり知り合いに対しては、感情が出てしまう。
 整理をして欲しいというクライアントなら、なんでもないことが、先輩に対しては批判的になってしまう。親子、夫婦で片付けについて揉めたり、トラブルになるのはこういう場合が多いのだろう。

 他人なら客観的にみられるのに、身内や知り合いだと非難したり、自分の価値観を押し付けてしまう。深呼吸をして、仕事を依頼してきたクライアントの一人だと、気持ちを切り替えることにした。わたしもプロだ。
「バスルームはどうなってます」
「トイレに行きたいの?」
「違います。スペースがあるかどうか見たいのです」
「ここではシャワーを浴びるくらいで、ほとんど使ってないの」
空きスペースが見つかり、蔵子はほっとした。
 次は、いつもバッグに入れて持ち歩いているスケールで部屋の寸法を測った。
 美知はレシピを探すのに、なぜこんな事をするのと、ぶつぶつ言いながら蔵子の指示に従って寸法をメモした。
 何も無ければ簡単な作業だが、紙や本の山を崩さないようにかき分けて測るのは、思ったより手間がかかった。
 じっくり紙類を見ると、DM(ダイレクトメール)や新聞の折り込みも多いようだ。
 蔵子は昨夜、ラジオで聞いた話を思い出した。

 アメリカでは日本以上にDMがたくさん送られるらしく、一生の間に送られてくるDMの量は、8カ月分くらいの膨大なごみの量になるそうだ。
 量に恐れをなしていてはこの仕事はできない。それにミッチー先輩はどうにもならなくて、切羽つまってわたしを呼んだのだからできるだけのことはしなくては。
「それでは、明日おうかがいしますので」
「蔵子、頼むわね」と美知は蔵子の手を握った。
 握力も昔と変わらないと思いながら、蔵子はマンションをあとにした。
 とりあえず、必要なものを用意しておこうと蔵子が事務所に戻ると、まろみが仕事をしていた。
「今日は休みなのに、どうしたの?」
「蔵子さんこそ、OG会の予定では?」
「OG会もあったけど、その後がね」
「はあ?」
「二つ上の、先輩の仕事場を片付けることになってね。それも明日から」
「そりゃまあ、急なことで」
「まろみちゃんは、どうして?」
「明日朝一番に打ち合わせに行く水野さんの資料で、足りないものがあったから」
「そうだった、よろしくね。そうそう、予備に置いてあるボックスファイルと、コンテナボックスを使うから」
「そんなに急ぐのですか?」
「一週間後の『アンデスの夕べ』のせいよ」
「話がまったく見えないのですが」
 蔵子は先輩の美知が料理研究家で、一週間後の『アンデスの夕べ』でペルー料理を作るために、埋もれたレシピを探さなければならないことを話した。
「ネットで調べられないのですか」
「現地の人のレシピだって。とにかく、片付けないとどうにもならないのよ」
「アンデスの埋もれたレシピ…なんて、神秘的。それにロマンティック。ハリソン・フォード主演だったらもっと良いのに」
「励ましのお言葉、ありがとう」

 翌朝、マンションを訪れた蔵子は、ハリソン・フォードでなく、美知の寝不足のむくんだ顔と対面した。
「ミッチー先輩、キッチンタイマーはありますか」
「どこかにあると思うけど…」
ふむ、やはりとひとりごちて、蔵子はカバンからタイマーを取り出した。
「なんなのよ、それ、卵でもゆでるの?」
「残念でした。これで時間を計りながらやります」
お好きなようにと、美知は肩をすくめた。
「まず、一番の目的はレシピを探すことですね」
蔵子は念を押した。
「でも、片付けながらでないと、レシピは見つからない」
美知はこっくりとうなずいた。
「それではまず、リビングのこの部分のスペースを畳2枚分くらい空けます」
「でも、ここのものはどうするのよ」
「バスルームです」
「なんで、わざわざそんなことしなきゃあならないのよ」
「本当は、もっと近くにスペースがあれば能率は上がるのですが、ぜいたくは言えません。とにかく取り掛かりましょう」

 蔵子が用意していたカセットのボタンを押すと漫画[巨人の星]のテーマが流れた。
美知は一瞬ポカンと口をあけ、その後、涙を流して笑い転げた。
「昔、先輩はこの歌を聴くと元気が出るって、替え歌にして歌ってたでしょう」
「蔵子、よくそんなこと覚えてたわね」
「一緒に無理やり歌わされたのだから、忘れられませんよ。とにかく、この曲を聴くと先輩のやる気スイッチが入ると思って。それでは先輩は右側の山、わたしは左側、時間は十五分。どちらが早く終わるかです」
 美知は学生時代から負けず嫌いだったので、蔵子と競うことになると眼の色が変わり、どさっと抱えて、風呂場に持ち込んだ。
 タイマーのぴぴぴという音が鳴る一〇秒前に、三畳ほどの床が見えるようになった。

 蔵子は折りたたみのコンテナボックスやファイルボックスを組み立て、タイトルの紙を貼った。 本、切り抜き、レシピ、請求書や領収書などの書類、その他と書いてある。また、大きなごみ袋も破れないように二重にして用意した。
「ミッチー先輩、まずこの空いたスペースで作業をします。本はここ、新聞、雑誌の切り抜きはここ…先輩のレシピはここです。分類できないものは取りあえず、その他に入れてください。それから、DMや通販の本、チラシはこちらのごみ袋に入れてください。中身をぱらぱら見てはだめです」
「見なければ、わからないでしょ」
「見ていたら、一年たっても終わりませんよ。通販やDMは申し込みの期限がありますから、期限の過ぎているものは全部処分する」
「だって…」
「レシピが見つからなくても良いのですか。今度はこっちの山が先輩、わたしは壁際の山です。始めますよ」
 わかりましたと美知は渋々作業を始めたので、蔵子はまた、[巨人の星]のカセットをかけ、30分のタイマーをセットした。
 ぴぴぴぴとタイマーが鳴った時には、膨れあがったゴミ袋が4つになった。
「なんだか、半分はゴミだったみたい」
 ふーっと息を吐きながら美知は肩の力を抜いた。そうみたいですねと蔵子は微笑んだ。

「なぜ捨てられなかったのだろう? 簡単なことだったのに」
「捨てる基準を決めていなかったからですよ。いつか見るだろうと思っているものは、溜まるばかりで二度と見ることはないものです。だって、その頃には次に見るものが待っていますから、いつかというのは来ないのです」
 そうよねえと、腕を組んで美知は部屋を見渡した。
「それに、これだけあるとどこに何があるかも覚えていないから、結局無いのと同じで、情報としては使いものにはならないのです」
「確かに」
「一番の問題は今回のペルー料理のレシピみたいに、探すのにとてつもなく時間がかかることです」
「あればいいけど…」
「とにかく、やってみましょう。今度は六〇分でタイマーをセットします」
 二人はまた、部屋の端と端で作業を始めた。

 蔵子は「巨人の星」のカセットを止めて、ボサノバの「おいしい水」をかけた。
 とたんに、部屋の空気が優しくなったような気がした。美知も気が付き、手を止めて
「なんだか、ほっとするわね」と背伸びをした。
 藏子は「新わくわく片付け講座」でも、片付けをする時はBGMに音楽を流すのを勧めている。はじめはなかなかやる気になれないので、鼓舞するような元気の出る曲。ある程度流れがつかめ、落ち着いたら心地よい曲を流す。音楽の癒し効果もいろいろ云われているが、これも、片付ける環境作りのひとつだと考えている。

美知の作業のスピードも上がってきた。やり方がわかれば、あとは単純作業になる。
 ぴぴぴぴとタイマーが鳴って、六〇分終了。
「先輩、休憩です。そろそろお昼ですし、外へ何か食べに行きましょうか」
「もうちょっとで、この山が片付くから…」
「山は逃げませんよ。それに、無理をするとあとが続きません。私はお腹がペコペコです」
「蔵子は昔からよく食べたわよね。わかった。何か作るから」
「えーっ、ミッチー先輩の手料理ですか」
「そんなに、びっくりすることないでしょう。私の仕事は料理研究家です。そういえば、蔵子にごちそうしたことはなかったわよね」
 そうですねえと、蔵子は記憶をたぐった。
 美知は立ち上がって、ゆっくり腰を伸ばした。
「簡単なものでいいかしら」
「はい、ぜいたくは言いません」

 ランチは、アンチョビのパスタにガーリックバタ-添えのフランスパン、トマトとおくらの冷製サラダとエスプレッソだった。
 美知が料理をしているところを見ているのは楽しかった。
 確かに、あっという間に、ランチができあがり、ボサノバがゆるやかに流れる中、蔵子は美知の料理を味わった。
「ごちそうさまでした。おいしかったです」
美知は軽くうなずいて、二杯目のエスプレッソを飲みながら、部屋を見回した。
「この調子でいけば、今日中にごたごたが半分になるわね」
「そうですねえ。雑誌類も処分しますか」
「する。全部する」
美知の変わりように蔵子は目を見張った。
「ここで料理教室をしたかったのよ」
「片付いたらできますよ。世界の料理を教えるのですか」
「それもあるけど、高齢者向けの介護食をしたいと思って…」
 蔵子は美知の意外な言葉にむせた。
「食べることが楽しくなるような、介護食を考えてるの。介護する家族が簡単に作れて、おいしいもの」
「それはいいですね」

 二人は皿を洗い、また、片付けを再開した。
 昼から2回目のぴぴぴが鳴り、休憩にしようと美知がアール・グレイの紅茶をいれ、小熊の形をした缶の中からクッキーを出して、皿に並べた。
 蔵子は、チョコレートがおいしそうだがナッツのも良いな、もうひとつはジンジャーかしらと皿を気にしながら、訊いた。
「ミッチー先輩、ペルー料理のレシピは、黄色い紙に書いてあったのですね」
「そう、途中の空港で買った、黄色いリーガルパットに書いたのよ」
「今、片付けている山の下の方に、黄色い紙が見えますよ」
 美知の眼が細くなった。
「蔵子にこのクッキー全部あげるわね」
「先輩、私を太らそうと思っていません?」
「ばれたか、なんてね。蔵子の体重をわたしが気にする訳ないでしょ。それよりレシピが先よ。それさえ見つかれば…」
「片付けをやめますか?」 蔵子は真顔になった。
「ここまできたら、やめませんよ。この調子でやれば、料理教室も夢じゃないしね」                                     
 良かった、このまま中途半端に終わればすぐに元の木阿弥になる。始めは片付けようと意気込んでも、がんばり過ぎて最後まで続かない人も多い。時間がかかっても、大変でも、一度片付けると、すっきりした心地よさを実感できる。まずはこの「体験」が重要である。
 蔵子は美知に料理教室を開いて欲しかった。

 ティータイムの後、レシピが見つかりそうな山を美知が担当した。
「蔵子、違ったぁー。同じ紙だけど、これは旅行のメモよ」
「この近くにあるかもしれませんよ。そのあたりを集中して探しましょう」
蔵子は美知と背中合わせになり、本、書類、切り抜き、雑誌、DM、チラシなどを分けていった。

 山の数は減り、ゴミ袋の数が増えた。
「ミッチー先輩、このマンションはゴミの日が決まっていますか」
「うちは、裏にゴミ置き場があるから、いつでも出せるのよ」
「一度にゴミ袋を十五も出して、文句は出ませんかね」
「結構広いし、大丈夫だと思う」
「良かった。それでは取りあえず、ここまでのゴミを捨てに行きましょう」
 ゴミを出す日が決まっているマンションでは、こんな風にはいかない。午前中とか、午後とか、ある程度決まった時間に出さないと苦情が出るし、一度に十五もゴミ袋を出せばひんしゅくものである。
 整理をした場合、ゴミの出し方も視野にいれておく必要がある。
 ゴミ置き場へ二人で三往復して、リビングの床も三分の二のスペースが空いた。

 窓を全開し、ほこりがたまっている空きスペースにざっと掃除機をかけると淀んでいた空気が浄化されるような気がした。
 ここまでは、風で紙が飛んでは困るので窓を開けなかった。
 何年も閉めっぱなしになっていたカーテンが揺れている。
「風が通るって、こんなに気持ちの良いものなのねえ」
 蔵子は美知の変化を喜びながらも、ペルー料理のレシピは一体どこにあるのかと考えていた。
 美知は掃除機をかけるのは何年ぶりだろう? これだと、掃除も苦にならないと上機嫌である。
 急にかがみ、何かを拾い上げて、歓声を上げくるくると回り、踊りだした。
 次の段取りを考えていた蔵子の手が止まった。
「せ、先輩、大丈夫ですか?」
「ハーイ、蔵子、見つかったのよぉー」
「レシピが見つかったのですか」
「違うの、エメラルドよ。ほら」
 美知は手の平に、緑の石が縦に三つ並んでいるピアスを載せた。
「クスコの土産物店で一目ぼれして、買ったのよ。給料の何カ月分っていう値段で、一生ものだと思っていたのに。片方落として…外で失くしたと思ってた…あったのよ、蔵子」
 美知は蔵子の肩を抱き、BGMのボサノバに合わせてダンスを始めた。
 蔵子の経験では、本の間から現金や商品券が出てきたり、失くした結婚指輪発見などは、よくあることである。
 こういう思いがけない喜びは、片付けのおまけのようなものだと思っている。

 美知の興奮がおさまったところで、蔵子は作業の再開を宣言した。
「ミッチー先輩、次はバスルームに運んだものの整理です」
「そういえば、あそこにもまだあったわね」
 二人で、空いたスペースにまた一抱えずつ運んだ。
 タイマーをセットし、カセットをビートルズに換えた。
三曲目の [In My Life] が流れだしてすぐ、美知があった! と声をあげた。
レシピは、通販のうまいもの案内の冊子の間に挟まっていた。
これよ、これ! こんなところにあったのねと涙を流さんばかりである。
アロス・コン・パト、セビーチェ、パパアラ・ウアンカイナ、デザートはアフファホーレス…。

 蔵子にはどんな料理か想像もつかないが、足りないレシピはないらしい。
「アンデスの夕べ」に間に合いそうですね、と言いかけた蔵子の手をしっかりと握り美知は声を震わせた。
「本当にありがとう、蔵子。いくら感謝しても足りないくらいよ」
「そんな大げさな…」
「レシピは見つかったし、このまま片付ければ、料理教室も夢じゃない」
「ミッチー先輩、これはわたしの仕事ですから」
 蔵子はここできちんと、ビジネスとプライベートの一線を画しておくべきだと判断した。
「そうよねえ、そうだった。そこで蔵子に相談だけど、料金はもう少しお安くならない?」
これだから先輩にはかなわない。

 第一の目的のレシピが見つかったので、蔵子はほっとした。
リビングには、まだ山が三分の一残っているし、キッチンはいまだ手つかず。
「ミッチー先輩、あとはどうしますか」
「レシピが見つかったから、残りは自分で片付けるわね。今日の作業を続ければ良いのよね」
 蔵子は、今日の作業は不要なものを捨てただけで、整理までには至っていないことを説明した。
 通販のカタログを見せて、本棚を一つ購入しそこにきちんと本を並べること。
料理の切り抜きやレシピをファイルにまとめ、ラベルを付け、どこに何があるかわかるようなリストを作ること。できれば、パソコンを使ってデータを作るのが望ましいこと。
そういえば、どこかに埋もれているパソコンは未だ行方不明だ。

 食器や調理用具は写真を撮って、リストを作り、使えるようにすることなど思いつくことを紙に書いて渡した。
「はい、はい、わかりました」
 美知はレシピが見つかったことで、もう片付けが済んだと思っているようだった。
 マンションを出た蔵子は、これでよかったのかと思いながら、早く帰ってお風呂に入りたいと足を速めた。

 三ヶ月後、美知から蔵子の携帯電話に、すぐマンションへ来て欲しいというメールが来た。
 電話をかけたがつながらないので緊急事態かと思い、まろみに事情を話し、予定を変更して蔵子はタクシーに飛び乗った。
 インターホンを押すと、どうぞという声が聞こえて、元気そうな美知が姿を現した。
「ミッチー先輩、何があったのですか。具合でも悪くなったかと思って…」
 肩をすくめた美知は、リビングへと手招きした。
 部屋の中は、またもや紙だらけで床が見えなくなっていた。
 蔵子は唖然として何も言えなかった。
「明後日、ザッハトルテのレシピがいるのよ。蔵子お願い」と美知は拝むように手を合わせた。

 大きく深呼吸をして、蔵子は手帳を開き、予定を確認した。
「明日、片付けのスタッフを三人寄こしますので、それでレシピが見つからなければ諦めてください」
 そんなぁ、蔵子が来てくれるのでしょうと、美知は甘えた声を出した。
「予定が入っていますので、無理です」
「そこをなんとか」
 蔵子は携帯でまろみに連絡を取り、手配をした。
 美知は蔵子の意思が変わらないことがわかると、冷たいのね、少しくらい無理を聞いてくれたって…と睨みつけた。
 怒ってはいけない、これはリバウンドでよくあることだ。
 わがままなクライアントを相手にしているだけだと、蔵子は胸の内で繰り返した。
「とにかく、明日片付けてみましょう。今の段階では、見つかるかどうか、お約束はできませんが」
「わかりました。よろしくお願いします」 
 美知の口調も他人行儀な響きに変わった。
 

 事務所に戻った蔵子は、まろみと翌日の打ち合わせをした。
 次の日、蔵子は区役所で主催する「老前整理講座」の打ち合わせがあったので、まろみとパートの片付けスタッフ二人で美知のマンションに出かけることになった。
「蔵子さんの先輩って、どういう人ですか」
「う~ん、そう言われると難しいなあ。ひとことでは言えないというか…」
「三ヶ月前の片付けのリバウンドでしょうか」
「レシピを探すのが目的だったから、最後まできちんと片付けなかったのが良くなかったし、わたしにも責任の一端はあるのよね」
「でも、先輩があとは自分でやるからいいって言ったのでしょう」
「そうだけどね。こうなることは薄々分かっていたような気がする」
「気にすることないですよ。それに先輩プラスわたしたち三人で片付ければ、能率も違いますし、できればレシピのファイリングまでしますから」
「そうしてもらえる? 料金はちゃんと請求するから」

 翌日、美知のマンションを訪れたまろみは、スタッフと共に片付けを始めた。前回よりも不要なものは少なく、床に散乱しているのはレシピや切り抜きが多かった。
 スタッフの二人が床の紙類を集める間に、まろみは美知からレシピをどういう分類に整理するのか相談した。
 検討した結果、イタリア、フランスなど各国の料理が大分類で、次に前菜、主菜などに分けることにした。
 美知は、初めからもっと細かく分類したいようだったが、渋々まろみの提案に従った。
 大分類のファイルボックスに、レシピや切り抜きを入れる作業の途中で、美知が探しているウィーンのお菓子“ザッハトルテ”のレシピも見つかった。
 まろみはレシピが見つかったが、これで終わりにするか、ファイリングまで作業をするかと美知に決断を迫った。
 美知は即座に、レシピのファイリングをして欲しいし、キッチンも整理して使いやすいようにして欲しいので、すべてお任せしますと頭を下げた。
 蔵子から聞いた話では、身勝手な先輩だがあかの他人にまで先輩風を吹かすことも無く、まろみには普通の人に見えた。

 翌日も三人が美知のマンションで働いた。
美知は、朝から台所で“ザッハトルテ”作りにかかりきりだ。
 ザッハトルテは、チョコレートの王様といわれ、ウィーンのザッハホテルの名物菓子で、そのレシピは門外不出と言われていたが、経営難その他のトラブルで世間に出回るようになった。
 昼過ぎに蔵子が様子を見に来た時には、四人でにこやかにウインナーコーヒーとザッハトルテを食べていた。
「蔵子さん、美知さんがわたしたちにも食べてみてって、勧めてくださったのです。このチョコレートが、こってりしてもう最高!」
まろみが口の端にチョコレートをつけて、早口でまくしたてた。
 本当は少し寝かせたほうがおいしいのだけど、蔵子も一緒にどう? と美知はカップと皿を取りに行った。

“おいしいものは人を幸福にする”これは誰の言葉だったかしらと思いながら、蔵子は濃厚なトルテを味わった。
「蔵子、お陰で片付いたし、今度こそ料理教室も開けそうよ」
「そうですね。でもミッチー先輩、今度はこの状態を維持してくださいね」
 美知は大丈夫と胸を叩いて、「実は、まろみちゃんに月に一度、片付けのコーチングに来てもらおうかと思ってるのだけれど、だめかしら?」
 蔵子がまろみを見ると、やりたいという風にうんうんとうなずいている。
「わかりました。わたしもそのほうが安心ですから」

  こうしてまろみは、月に一度美知のマンションを訪れることになったが、どうやら料理教室では第一号の生徒になるらしい。案外、あの二人は相性が良いのかもしれない。
今度K社で何かパーティを開く時は、ミッチー先輩に料理のケータリングを頼むことにしよう。
終わりよければすべてよし、とつぶやき、蔵子は美知のマンンションをあとにした。

14章終了

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ひとり暮らしの老前整理® (13)


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