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21章 息子の部屋に忍び込む?

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 蔵子が外出先から戻ると、ドアの前でまろみが待っていた。
「どうしたの? まろみちゃん。立たされ坊主みたいじゃない」
 蔵子の袖を引っ張って、まろみは廊下へ出た。
「それが、蔵子さんにお客さんですが…」
「中で話せない事?」
「この前『新わくわく片付け講座』を受講した島袋勝子さんのお友達ですが…」
「じれったいわねえ、な~に?」
「息子さんの部屋を片付けて欲しいそうです」
「どこが問題なの?」
「だって、息子さんに内緒でマンションに忍び込むって」
「それはだめでしょう」
「何回も説明したのですが、とうとう怒り出して、湯呑みを投げつけられて、責任者を出しなさいって激オコ」
「まだ、いらっしゃるのでしょ」
 まろみはドアを見て、唇をかみしめた。
 
自己紹介を済ませ、それでは、お話しを聞きましょうと、蔵子はソファに腰を下ろした。
 美崎七海子はハンカチを握りしめ、蔵子をにらみつけた。
「息子さんのお部屋の片づけだそうですが」
七海子はぶっきらぼうに、そうですと答えた。
「どうして息子さんのお部屋を片付けたいと思われたのですか」
「母親なら当たり前でしょうが」
「息子さんはおいくつですか」
四三ですと答えた七海子の声は心なしか小さくなった。
「息子さんは片付けを希望しておられるのでしょうか」
「きれいなほうがいいに決まっています」
「それはそうかもしれませんが、息子さんのお部屋ですから、息子さんがどう思っておられるかが問題です」
「息子は残業や出張で殆ど不在です、だからわたしが…」
「お母様のお気持ちはわかりましたが、一度、息子さんとお話をさせていただけませんか」
「だから、何度も言ってるでしょう。息子は忙しいのです」と七海子は声を荒げた。
「電話でお話しするくらいなら、お時間をいただけるのではないですか」と、蔵子は微笑んだ。
「もう、わからない人ねえ、ダメだって何度言えばわかるのですか」
 七海子は茶卓を取って、ばんばんとテーブルに打ち付けた。
「七海子さん、甘いものはお嫌いですか」
手を止めて、一瞬考え込んだ七海子は、いいえと答えた。
「まろみちゃん、お抹茶の用意と羊羹をお願いします」
 ポットと、お盆に薄茶を立てる用意をしたまろみは恐る恐る応接コーナーに入った。
 蔵子の茶筅さばきを見て、七海子の手が止まった。

「それではだめよ。貸してごらんなさい」
用意した三つの抹茶茶碗に七海子はお茶をたてていった。
羊羹を持ってきたまろみも蔵子の横に座った。
シャカシャカという音が静かな事務所に響く。
どうぞと、蔵子の前に茶碗が置かれた。
いただきますと口をつけた蔵子が、ああ、おいしいと漏らしたひと言に、七海子はにっこりした。

 黒文字で羊羹を口に運ぶ蔵子に、茶碗を両手で包みこんだ七海子がごめんなさいと言った。
「何がですか?」
「あなたたちに八つ当たりをして」
「わたしたちは気にしていませんよ。ねえ、まろみちゃん」
「はい、大丈夫です。湯呑みが飛んできたのもうまくよけられましたし」
「コントロールが悪かったわね。腕が鈍ったみたい」
 まろみがぷっと吹き出し、それを見て七海子も笑った。

 落ち着いた七海子はゆっくりと話し出した。
「実は、息子がわたしにマンションに来るなと言まして、わたしが預かっていた鍵を取り上げたのです」
「それはまた、どうして」蔵子は訊いた。
「週に一度、部屋の掃除をしに行っていたのですが…息子あての宅配便の中身を見たり、いろいろしたもので」
「いろいろとは?」
「つきあっている女性がいるようなので、その人がどういう人か興信所を使って調べました」
 まろみは、そりゃあ息子さんが怒るのも無理はないと思った。
「バツイチの二人の子持ちで、スーパーでパートをしている人ですよ。親が申すのもなんですが、息子は一流大学を出て、一部上場企業に勤めております。それも初婚です。
それなのに、どうして、子持ちのバツイチ女とつきあわなければいけないのでしょうか。
だから、わたしがその女に会って、息子と別れて欲しいと言いました。
いくらでも若いお嬢さんをもらうことができるのに…。その女は、わたしたちのことはわたしたちで決めますと言いました。そして、息子が余計なことはするなと怒って、わたしからマンションの鍵を取り上げ、携帯電話の番号も変えてしまいました。
会社に電話してもわたしからの電話には出ないのです」
「立ち入ったことを伺いますが、子どもさんはおひとりで?」
「そうです。ひとり息子で、主人は…主人は…」
 七海子はぽろぽろと涙を流し嗚咽した。

 七海子の夫は、定年になった翌日に、夫としての責任は果たしたので、離婚したいと家を出た。七海子は離婚届に意地でも印を押さないと宣言した。 
 熟年離婚といえば妻からの申し出が多いが、この場合は違った。夫は現在、元部下だった女性とマンションで暮らしている。
夫もひとり息子で、長年同居していた義父母の介護をして看取ったのは七海子である。
介護からも解放されて、ようやく夫婦二人ののんびりした時間を持てると思っていたのに、夢は崩れ去った。

 蔵子は、七海子が息子に執着したのも無理はないと思った。
長年家事と介護に明け暮れてきたのに、ねぎらいの言葉もなく、夫は出て行った。
きっと数え切れないほどの修羅場があったのであろう。
広い家にひとり残された七海子にはすることがなくなり、エネルギーは息子に向けられた。

夫婦の問題は他人にどちらが悪いといえるものではないし、また口をはさむことでもない。何と言えばいいかと逡巡している蔵子におかまいなしに、まろみが口を開いた。
「七海子さんも彼氏を見つければいいんです」
まろみちゃんと言いかけて、蔵子は口をつぐんだ。
「今、なんとおっしゃいましたの?」腫れた赤い目で七海子はまろみに聞いた。
 突然、バッグの中をごそごそとかき回し、紫のフレームの遠近両用めがねを取りだした七海子は、鼻の上にめがねを載せ、顎を突き出してまじまじとまろみの顔を見た。
「だからー、息子さんのことはほっといて、七海子さんも恋人を作れば一件落着です」
まろみは事もなげに云い放ち、にっこりした。
「コ・イ・ビ・ト」
七海子はヒンドゥ語でも聞かされたような顔をしている。
「まろみちゃんは、七海子さんがまだお若いから、もう一度やり直されてはどうかと…」
蔵子が補足すると、七海子はもう一度繰り返した。コイビト。
 “ムスコ”というキーワードしかなかった七海子の脳に、“コイビト・カレシ”という言葉がしっかりインプットされたのが二人にはわかった。
 果たして、まろみの提案が吉と出るか凶と出るか、蔵子は複雑な思いで七海子を見つめた。
 七海子は握りしめた両手を見つめてじっと考え込んでいる。

事務所の時計の音だけがこちこちと時を刻み、窓からの白い光が七海子の横顔を照らした。
突然、顔をあげた七海子はきっぱりと言った。
「勝子さんが参加された『新わくわく片付け講座』の案内を見せてもらえますか」
 ほっとした二人は顔を見合わせた。
「まろみちゃん、講座のチラシを持ってきて」
は、はいと、まろみは慌てて立ち上がった。
講座の案内をじっと見つめていた七海子は聞いた。
「あの、このパーソナルカラーやメイクは具体的に、どの色が似合うとか、メイクの仕方とかを教えていただけるのですね」
「はい、ですから一度にたくさんの方には受講していただけませんが」
「こちらを紹介してくださった勝子さんも、アドバイスを受けられたのですね」
はい、そうですと蔵子は頷いた。

 七海子はまた、唇を結んでじっと考え込んだ。
「実は、夫の荷物もそのままですし、義父母の荷物も片付いていませんの。これを機会に、片付けようと思いますので、そのために『新わくわく片付け講座』を受けたいと思います」
「わかりました。申込書をお渡しします。それで、息子さんの件は…」
「ああ、そうでした。まろみさんに言われたように、あんなバカ息子は、ほっときます」
 ホホホホと屈託なく笑う七海子の顔から、こめかみの険は消えていた。

 七海子を見送ると、蔵子とまろみは、疲れたぁと、ソファにへたりこんだ。
「まろみちゃんがコイビトなんて言うから、冷や汗かいたわよ」
「わたしも言ってから、しまったと思いました。また、茶碗が飛ぶんじゃないかと」
蔵子は抹茶茶碗がUFOのように飛ぶところを想像して、ふふふと笑った。
「頭のいい方だから、冷静になったら、息子さんを自分の思い通りにはできないってわかったのかも」
「これで一件落着でしょうか」
「そうなって欲しいものだわ」

 七海子は『新わくわく片付け講座』を受講しながら、正式に夫、孝雄との離婚を決め、残っていた孝雄の荷物を全部マンションへ送りつけた。
 荷物を送られた孝雄は仕方なく、マンションに収まらない荷物をトランクルームに預けた。

 次に七海子は義父母の2トントラック2台分の遺品を夫に送った。
箪笥からアルバム・衣類まで、片方しかなくなった足袋さえも、何一つ処分することなく箱に詰め込んだ結果がこれである。
また、七海子は後からもめては困るということで、引っ越し業者に全ての遺品のリストを作らせるという念の入れようだった。

 離婚の条件として夫名義の家を七海子の名義にしたので、七海子は夫が引き取るのは当然のことだと主張した。
 困った孝雄は、知り合いの会社の倉庫に両親の遺品を預けた。
 この中には、梱包された仏壇と両親の位牌も含まれていたことを孝雄は知らなかったし、仏壇のことなど顧みもしなかった。

七海子がすっきりした家で暮らし始めたところへ、義父の妹の昌代が近くに寄ったから、兄さんにお線香をあげたいと訪れた。
離婚の話を聞かされた昌代は驚き、兄の仏壇がなくなったことに真っ赤になって怒った。
「あんたたちが離婚するのは勝手だけど、何も仏壇まで…」
「わたしはもう美崎家の人間ではありませんので、美崎家のお仏壇は孝雄さんに守ってもらわないと」
「そりゃあそうだけど…遺品だって、形見分けもしてもらってないしね。わたしは大島紬と翡翠の帯止めをもらうはずだったのに…待てど暮らせど連絡がなかったものだから」

 実の兄に介護が必要な時には近寄りもしなかったくせに、七海子は昌代の勝手な言い分に腹が立った。
「何もかも孝雄さんに送りましたから、あちらにあると思いますので、お好きなものをお持ちになればよろしいかと」
 つっけんどんな七海子の言葉に昌代は勢いを失った。

「ところで、お仏壇の中のあれはどうしたの?」
「はあ?なんでしょう」
「だから、あれよ。兄さんから聞いてないの?」
「何のお話だかよくわかりませんが」
「もう、しらばっくれて、兄さんの株券よ」
「そんなもの見たことありませんよ」
「お仏壇の引き出しの奥の、隠し引き出しに入ってたの!」

 昌代が孝雄に電話すると、仏壇まであの荷物に入ってるとは知らなかったと、あわてて倉庫に急いだ。
 昌代と七海子も、倉庫に放置されていると聞き、タクシーで向かった。
 孝雄の顔を見るなり、昌代が怒鳴った。
「孝雄ちゃん、あんた若い女に血迷って、ご先祖の仏壇をこんなところにうっちゃって、罰があたるよ。ほんとに、わたしの目の黒いうちにこんなことが…兄さんやご先祖様に申し訳ない」
「いや、それは。マンションに荷物を置くスペースがなくて…まさか仏壇まで…」
孝雄はうらみがましい目で七海子を見た。
「離婚した私がお仏壇を守っていける訳がないじゃないですか」
「夫婦喧嘩はあとにして、お仏壇を探さなくては」と昌代が仲に入った。
 もう、夫婦じゃありませんと顔をそむけて、七海子も遺品の山に目をやった。

 倉庫の二人の警備員の力を借りて、ようやく仏壇を探し当てた三人の息は上がっていた。
 ほんとに、わたしまでどうしてこんなことしなきゃいけないのかとぼやく昌代の横で、わたしだってと七海子が孝雄をにらみつけた。

「おばさん、ほんとに株券が入っていたのですね」と孝雄が念を押した。
「いや、わたしは見たことはないけど、法事の時に兄さんが酔っ払って口をすべらしたのよ」

 仏壇の引き出しの奥の隠し引き出しには、古びた小さな桐の箱が入っていた。
「株券じゃない」
額の汗をふきながら、孝雄は桐箱を手に取り、そっと開けた。
黄ばんだ真綿に包まれた干からびた茶色い塊。
「俺のへその緒だ」

 昌代と七海子はへなへなとその場にへたりこんだ。
「一体どうして親父はこんなものを…」
 七海子が、アハハハと甲高い笑い声をあげた。

 株券じゃなかったのねと昌代が力なく仏壇の暗い穴をのぞきこんだ。
「おばさんが余計なことを言うから…」
 孝雄の非難にちょっと待ってと、昌代は壁にすがり、どっこいしょと立ち上がった。
 腕を組んで考え込んだ昌代がわかったと手を打った。
「なにがわかったんですか」
 ふてくされている孝雄に昌代は説いた。
「へその緒は兄さんたちの一番大事な物だったのよ」
 えっという顔で昌代を見る孝雄に、昌代は諭すように言葉を継いだ。
「孝雄ちゃんが一番大事な宝物だったのよ。へその緒はその証。兄さんたちはなかなか子どもができなくて、結婚して一〇年、二人とも諦めていた頃に授かったのがあんたよ。そして、美崎の血をつないでくれる跡取りだから。そんな親の気持ちも知らずに…」

 黙って聞いていた七海子も、わたしもそう思うと口を添えた。
 袖で目をぬぐった孝雄は、お仏壇は持って帰りますと仏壇に向かって手を合わせた。
「そうしてちょうだい。それからこの遺品の山はどうするの?」
「これもわたしがきちんと片付けます」
「あ、そう。それで、義姉さんの大島紬とヒスイの帯止めは形見分けにわたしにちょうだいね」
「なんでもお好きなものをどうぞ」と答えた孝雄は七海子の前に進んだ。

「七海子も長い間親父とおふくろの面倒を見てくれたのだから、欲しいものがあれば…いや…すまなかった」
 孝雄は深々と頭を下げた。
「わたしはそのひとことで充分です」

21章 終

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