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小沢健二 東京大学900番教室講義

年末に届いた小沢健二の東京大学900番教室講義のテキスト。「アケルナキケン」という封があったので、年明けの音声配信まで大人しく待っていました。今回はこのテキストを読みながら音声配信を聴いた感想を(具体的な内容にはなるべく触れずに)noteを書きたいと思います。


始まった!

音声を聴いて最初に思ったのは「オザケンだー!」ということ。画像は無く音声だけだったこともあるかもしれませんが、軽やかで優しそうな声。自分が大学生の時に聴いていたオザケンの声で講義が進むことに、めちゃくちゃ感動しました。そして癒やされました。

講義は、テキストの内容を参照しながら、しかしテキストを読み上げたりするわけではなく(たぶん板書もしていない?)、オザケンが考えていることや、研究者たちの論、そして研究データなどを交えながら解説していくと言う流れで進みました。

ページ間を言われるままに行ったり来たりしていると、「なんで順番に並べないんだろう?」と最初は思いましたが、講義が進むにつれて「今度開くページには何が書いてあるんだろう、ワクワク」という気持ちになってきて、まさに「体験型講義」「アトラクションのような講義」で惹き込まれていきました。

テキストの装丁はリングノートの形式で、中身はページごとにこだわったであろうデザインと編集。余白や配置もバラエティに富んでてほんとに面白い。後から考えると1ページ1ページのデザインがバラバラなので、イメージと一緒に講義内容が頭に入ってきて、「あ、このページの時にこんなこと言ってたよな〜」と思い出しやすかったです。

内容的には、本当に色々な分野からのデータや記事を引用しながら、自然科学と社会科学の接続を試みるような、そこにオザケン自身がワクワクしているような、そんな内容でした。このnoteではネタバレはしないようにしつつ、自分が気になったキーワードを3つほどピックアップしたいと思います。

国家とは

ギリシャの哲学者プラトンの「国家」や「イデア論」を参照しながら、少数の権力者達によって多数の人が制御・支配される構造を批判しています。(批判は、否定ではなく、Criticalに見て論じることとして使っています。)プラトンの「国家」に書いてあることも今読むと相当差別的で酷い内容ですが、その背景には師匠であるソクラテスが衆愚政治によって死刑にされてしまった、だからそんな政治ではなく少数の優れた人たちが管理すべきであると言う考えがあったそうなので、複雑です。。。

個人的な関心では「コモンズ」と言うキーワードがあります。コモンズとは、個人所有でもない、政府の管理でもない、共有地・共有物のことで、例えば入会地や河川水などが挙げられます。近年ではそう言ったコモンズが解体され全てが商品化する流れになっていますが、誰も所有権を設定しないコモンズとしての存在が見直され始めています。

経済学者である宇沢弘文は著書「社会的共通資本」の中で、自然環境(空気、水、など)、社会的インフラ(交通機関、上下水道など)、制度資本(教育、医療、金融など)の3つを社会的共通資本として挙げています。

こういったコモンズをどのように維持管理していくのか、そもそもなにがコモンズであるべきなのか?などを探究したいと思っています。

デジタルとアナログ

次に興味深いテーマはデジタルとアナログです。(講義の内容的には繋がっているのですが、ここでは講義内のつながりは脇に置いておきます。)

演奏会で聴く音楽やキャンバスに描かれた絵画などは「アナログ」であり音の変化や色の変化は連続的です。それに対してCDやストリーミングなどの音声データやJPEGやPNGなどの画像データなどは「デジタル」であり、アナログデータを「サンプリング」と「量子化」してデジタル化しています。

デジタル化したデータは連続的ではなく、一定の間隔で分割(サンプリング)され、指定された細かさで表現(量子化)されます。例えばCDであれば通常44.1Khz(1秒間に44,100分割)、16bit(65536段階で表現)となります。
これをスピーカーで再生することでアナログとして再生され耳で聞くことができます。

このアナログとデジタルの変換では様々な情報が抜け落ちるのですが、オザケンはこれを「デジタルにするということは複雑なものを単純なものに決めつけること」と言っています。

個人的にはこの感覚はめちゃくちゃ共感します。要は「記号化」することで分かりやすくはなるけど、記号化された情報以外が全て抜け落ちてしまう。貨幣による価値交換なんかも同じで、頑張って働いてもらった1,000円も、人から盗んで得た1,000円も、お年玉でもらった1,000円も「1,000円は1,000円」になってしまう。1,000円の裏側にあるストーリーは全く無くなってしまう。

これはどんな1,000円?

それが行き過ぎると何が起きるか?イスラエルの保育園での実験が象徴的です。

この実験のポイントは3つ(記事の内容を踏まえて一部簡略化)

  • 保育園のお迎え時の遅刻を減らすために罰金制度を導入。

  • 罰金制度を導入したあとの方が遅刻が増えた。

  • 罰金制度を廃止した後も遅刻の数は減らなかった。

つまり「お迎え時の遅刻」の背景ある複雑な状況(どうしても抜けられなかった、保育園の先生に対して申し訳ない気持ち、子どもに対する寂しい気持ち、などなど)が、「罰金制度」によって抜け落ちてしまい単なる1,000円という「記号」になってしまった。それによって経済合理性のみで「仕事」と「遅刻」を比較できるようになり「遅刻」が増えたと考えられます。
しかも罰金制度が廃止されても遅刻の数が減らなかったということは、金銭的負担の有無ではなく、「記号化」によって比較可能な情報の有無が影響していると言えそうです。

アナログが良くてデジタルがダメ、っていう単純な図式にしたいわけではなく、デジタル化する時や情報が伝わるときって様々な情報が抜け落ちてるということに自覚的になりたい。

ちゃんと複雑

ソクラテス、プラトンが考えていた哲学は「この世には絶対的な真理があって、それに向かって人間は進歩するし、それを探求するのが哲学」と絶対主義の哲学ですが、現代では相対主義の哲学が主流です。

「究極の理想がある」「物事の本質を極めたい」と言う欲望は人間の性のような気もしますが(実際自分も興味ありますが)、現在では相対的に物事を捉えて考えなければならず、そうするとその背景や関わる人たちが常に変化するので物事は必然的に「複雑」にならざるを得ません。

この複雑さにちゃんと向き合うためには、あきらめずに対話を重ねてその都度最善を尽くす、それしか無い。

そう言った意味で、2023年末に制作した作品の講評で「ちゃんと複雑」とコメントをもらえたのが良かった。

テーマ「パブリックとプライベートに生まれるニキビを作りなさい」

価値の「交換」というものは存在するのだろうか?
この作品は、「かごに入ったボールを相手に渡す」ところから、個人から個人への価値提供を表現している。白色と黒色は価値の有無を表現しているが、どちらが価値があるかには触れられておらず送り手・受け手によって異なるだろう。渡す相手とは距離がありボールは手渡しではなく投げ渡す形である。そしてそれをカゴのようなもので受け取る。そのためいくつかのボールは地面にこぼれ落ちている。地面を見ると白色と黒色に分かれ、その境界線上に2人は立っている。白色と黒色のボールが地面に転がっている。ここでも白と黒が何を意味するのかは見る側に委ねられる。白と黒以外の色は存在せず中間色も存在しない。しかしそれが簡単に白黒つくものではないことは明らかだ。
相手に渡したと思っているもの全ては相手に届かず、自分が良いと思うものが相手にとっては悪い場合もあり、それを第三者である社会がどのように評価するかも分からない。価値提供とはかくも不確実なものなのである。

世の中の本質をシンプルに理解したいという欲望すなわち「白か黒か」という二元論による結論を保留させ、世界は複雑であるということに気づく。

わたし

このタイミングで、この講義を聞けたのは本当に良かった。

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