自分の書いたものが世界から消えるときの気持ち
なえぽよ~~
先月、自分の書いていたメディアが閉鎖した。そこは企画から執筆まで自由にやらせてくれるメディアで、担当編集も同世代だったので楽しく仕事ができました。これ書いている間に消えてしまった……ありがとうEngadget日本版。海外版にリダイレクトされるようになったね。
っでサイトごと消えてなくなってしまうので、4月末はポートフォリオとして自分の書いた記事をぽちぽち保存していたんだけど、虚無感に襲われていたらnoteの更新を忘れていた(5月からは今度こそ毎週更新したい)。
自分の書いてきた記事を振り返ることはあまりないので、いい機会だったといえばそうなんだけど、色々思うところはある。
ウェブ上の記事は、そこに関わる人間がどう思っていようと、頂点にいる人間の意見で簡単に消えてしまう。特に、メディアが掲載している情報の価値ではなく、メディアが稼ぐ広告料や、マーケティング効果にしか興味がない人がトップだと、メディアは突然消える。情報のアーカイブ化という観点からは、ありえねぇ話だと思う。
ちょっと真面目な話をすると、文字媒体の価値は参照可能性だと思っている。現在、覇権を握りつつあるYoutubeやTiktokといった動画メディアは、あとから振り返って引用するのにあまり向いていない。そもそも情報が整理されていないことが多いし、特定の箇所を参照するのに文字よりも手間がかかる(紙なら重要なところには付箋を貼ればいいし、WebならCtr+Fで検索できる)。
また、紙の本ならば、原稿に詰まったときに本棚を見て、使えそうな本を探すことができる(Web・電子でもアーカイブを作っておいて、疑似的な本棚として機能させれば可能だろうとは思う。手間がすごいが……)。
もちろん、動画サイトのアーキテクチャが後からの参照可能性に目を向け、なんらかの改善を施せば、文字と同じくらい引用や参照がしやすくなるかもしれない。だが、今の動画サイトのビジネスモデル等を鑑みても、そうした方向に舵を切ることはないだろうと思う。
当分は、動画や音声の情報を参照するときは、それを起こしたインタビュー記事を読むだろうし、それがないなら自分で起こしてから使うことになるだろう。
まぁ、そもそも、1年前に得た情報を使って、小難しい論理を組み立てようという人間自体が減っていると思うので、今後もどんどん文字は肩身が狭くなるとは思う。それでも、自分が文字で仕事をしたり、批評誌を作ったりしているのかといえば、どんなに衰退しても未来に参照されるのは文字だと信じているからだ。
まぁ、ここら辺についてはまた筆を改めるとして、Webの記事が運営のさじ加減で消えてしまうのは、とてもよくない。10年前、どんな製品やゲームが登場し、それがどう受け止められたのか。誰がその記事を書いて、そいつは今何をしているのか。
単なるノスタルジーの道具ではなく、現在を文化として見る、未来の視線を失った。
まぁ、なんか真面目に書いてしまったけれど、お仕事減ったのは悲しいよね。お小遣い減ったし。
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