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短文の練習③~虫の歌~

 洗濯物を取り込みに外に出た。

春という季節の境目はもうすっかり曖昧で、緑がかかった初夏の様相を流れる空気に感じる。

風に流されてよろめいた羽虫が一匹、引き寄せられるように窓に張り付いた。

進みたいその先を隔ててしまうガラスが人工的な壁となり、実家に住んでいた頃に二度鳥がぶつかったことを思い出した。

地面に落ちてしまったその躰を見下ろしたことだけは覚えている。

死んでしまっていたのか、失神していただけなのか。

目を閉じたスズメを見た記憶がその時のものだったのか、あるいはまったく別の出来事のものだったのか、記憶は混濁している。

 洗濯物を取り込み終え、窓に張り付く、生涯誰にも名前を知られないだろう虫を退けようと、窓を軽くたたいたり、息を吹きかけたりと工夫を凝らした。

虫は、人間であれば瞬きもしないという表現が合いそうなほどに、寸分もその場を動かない。

今度はかつて実家の窓に張り付いて離れなかったカマキリが、その数時間後に産卵していたことを思い出した。

あれは結局、私の言いつけを聞いた父の手によって排除されていた。

ただ私は事実を報告しただけのつもりで、数百の命を左右するつもりなんてなかったのだけれども。

 「虫も殺さない」とは、時には蔑みの意味合いを以て使われる、臆病さの見えるほどの表現だが、私はその言葉通りの人間だった。

虫ほどの存在でも命を奪うことは、自分が死して生涯を清算する時を想像すると、罪として数えずに済ませられることなのかがわからない。

見えない恐怖の抑止力によって、無知な頃に日常的にしていたことが成長する過程でできなくなっていた。

 父と二人で夜食を食べていた時に、ムカデが出たことがある。

田舎の山奥の家に、ムカデが出るのはなんら珍しいことではない。

私はムカデが大嫌いだった。

小学生の頃の深夜、布団にどこからか紛れ込んだムカデにわき腹を刺され、激痛で目を覚ました経験がある。

そんな日の翌日、今度はふと違和感を感じた肩に目をやったら、10cmほどのそれが張り付いていた。

今でも皮膚の上をムズムズと何かが這う感覚があると、その時のことを思い出してしまう。

元々嫌悪感を抱かれる見た目に加えて、二日間の経験がその感情を特筆するものにしていた。

それでも、私はムカデを殺すことはせずに、新聞紙で家の外まで追いやることを試みようとした。

殺そうという考え自体が端から浮かんでいなかった。

だが、そうした私を押しのけて、父がその地を這う虫の動きを止めたのは電光石火の出来事だった。

粗雑で乱暴な一瞬だった。

思わず「逃がせばいいのに」と言う私に対して、父は「家族のためだ」と、反論を許さない口調で言った。

 東日本大震災があった時、再び起こるのではないかと囁かれる大地震と原子力発電所を恐れて、拠点を移した企業や人が多くいた。

ある著名な詩人が移住した理由に「子供のために」ということをしきりに強調して書いていたことに、違和感を感じずにいられなかった。

人のため、というのは大人が使う自身を正当化するための口実なのかと青い頃は思ってしまったし、いい大人になった今もその名残が胸中にある。

詩人の子どもに、「家族のため」と言われた私の姿を重ねてしまった。


 しばらく虫が退かないかと試行錯誤した後、ここまでして動かないならば、いっそ窓を開けても動かないであろうことに気が付いた。

慎重に窓を開けると、やはり微動だにしない。

家の中に入って窓を閉め、それでもなお動かずにいる虫の、本来見ることのない裏側からの躰を見つめた。

四つの足で張り付く、こちらにわかる形で言葉も意思も発さない彼ら彼女らは、やはり二本の手足で動き、懊悩したり言い訳したりする私たち人間とは異なる命なのだろうか。

外見の大きく乖離した意思疎通を図ることのできない巨大生命体に人類が蹂躙されることがあったとして、その時私たちは虫を殺したことを思い出さずにいられるだろうか。

そういえばそんな設定のSF漫画を先日読んだばかりだったことに気づいて、自分の思考の陳腐さに笑ってしまった。

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