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かすみ

※この物語はフィクションです


 「もうすぐお風呂が沸きます」

「もうすぐ、お風呂が沸きます。」

電子音に続けて、少しだけ上機嫌な様子の混じった声で、彼女がスマートフォンに目を落としたまま言う。

僕はパソコンに向かってキーを叩いていた手を止め、立ち上がってチェストから着替えを取り出した。

風呂場へ向かう僕の背中に彼女は張り付くようについてきて、一緒に部屋を出た。

「さむ~~~」

わざとらしく震えながら服を脱ぎ、身体を隠すように慌ただしく下着を取っていく彼女と、狭い脱衣場で肘や足がぶつかる。

寒がりな癖に薄着でいて、逆に四枚も五枚も着込む僕の方が決まって時間がかかっていた。

シャワーをあたためる彼女に迎えられた僕は、足元に冷水を浴びせられる。

冷水の洗礼、なんて駄洒落のようなくだらないことを言う僕目がけて、シャワーヘッドがいたずらに上を向いた。

 あたたまったシャワーをさっと浴びて、湯船に足を入れていく。

まず彼女がゆっくりと、でも急ぎながら入って、その後で僕が少し勢いをつけて入る。

『となりのトトロ』のワンシーンのように湯があふれて、詰まりかけの排水溝に水が溜まっていった。

「があああああああ」と目を見開いて地を震わすトトロの叫びを真似る僕の口の中を、彼女の指が滞空する。

僕が舌を伸ばしてそっとその先に触れるよりも、彼女の手が引く方が先だった。

肘が水面を撫でて飛沫を上げる、その軽やかで透明な音が閉め切った狭い風呂場に残る。

「何か話してよ。」こうしたちょっとした戯れの後に、話の舵取りが僕に任されるまでが一連の流れである。

 僕は、彼女の頬に手を伸ばした。

「なに?」

「サイコメトリング。」

怪訝な顔をする彼女の顔は、さらに疑問の色を深めたものとなる。

僕は先日観た、交通事故による五年の眠りから覚めた主人公が、触れた人の未来を見る力を得る『デッドゾーン』という映画を二十秒くらいで説明した。

「その映画って最後どうなるの?」

興味を引くことができたようだ。

だが、それを事細かに口にしてしまうことは、僕の映画鑑賞における主義に反する。

とても不幸な未来を見てしまい、大きな決断を迫られるんだということを、僕はできるだけネタをばらさないよう、それでいて作品の面白さを損ねないよう伝えることに努めた。

 明日、急に無職になったらどうするだろう。 

 明日宝くじに当たったらどうするだろう。

 明日、僕がいなくなったらどうするだろう。

日が週、週が月、月が年へと時を経ていく中で、向こう側がうっすらと透けるクレープのように薄い言葉を、何層にも積み重ねてきた。

いつの間にか専門的な言葉を織り交ぜて仕事の話をしていた彼女はほんの二年前まで学生で、その頃は地質学の用語を扱っていた。

僕が彼女から学ぶことができたのは、小学校か中学校ぶりに耳にした花崗岩と安山岩と、煌めく宝石のようなイメージのオルドビス紀という言葉だけだ。

ビジネスの用語はまだ幾分身近で飲み込みやすい言葉だけれども、背伸びをしているように見えて時折にやりと顔が綻んでしまう。

その度、彼女の方はバカにされたと感じて、顔をむっとさせるのだ。

僕たちは、これからあとどれくらいの言葉を投げ合って、あとどれくらいのお決まりごとを繰り返していくのだろう。

 彼女の両手が包み込むように僕の右手の指先を撫でている。

片方の手を振り払って、彼女の小さな掌に広がる指に僕の細く長い指を絡めると、手を伸ばしてもう一度彼女の頬を柔らかくなぞり、名前を言った。

「それで、何が見えるの?」

このあと、焼きうどんを食べるよ。

「やった。」

何度も作って来た、僕の得意料理だ。

 掌を頬から首に伝わせて、そっと抱き寄せるように小さく力を入れる。

膝をぶつけ合う狭い浴槽で上半身を伸ばして、ウェットな口づけを交わした。

交代に頭を洗う中、僕は足を伸ばした浴槽に沈むように顔をうずめて、彼女の身体の描く曲線を忘れないようにと眺めていた。 


 お湯を溜めることはなくなってしまった。

寒い冬の朝、出勤前に震えながらあたためたシャワーを慌ただしく浴びる。

ドライヤーでセットする僕の頭には、処理されることのなくなった白髪が残って、頼りなくLEDの光を反射している。

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