御冷ミァハを探している
伊藤計劃大先生の『ハーモニー』を読んだことはある?
ない?
このnoteを読まずに『ハーモニー』読んだほうがいい
で
あの小説では、主人公のトァンちゃんが御冷ミァハに出会うことで物語が進んでいる
もちろん小説なので百回読み直すと百回だけトァンはミァハについて回想して、おっぱいと子宮について語って、キァンは喉元にナイフぶっ刺して死んで、ミァハはトァンに殺される
ifはない
何かの間違いでキァンが死なずにトァンの捜査に加わって、ミァハを撃ち殺すところに割って入るキァン大団円ルートがあったり、インターポールの兄さん(名前忘れた)を予め殺すことでヌァザが生存して人々の意識は奪い去られずに終わる人類補完失敗エンドになったりとか、そういうことにはならないわけだ
『ハーモニー』がシュミレーションゲームとして発売されたら、そういうのもあるかもしれない(伊藤先生はときメモとか好きだったらしいから可能性はある? ないか。でたら買うけど。でも『すべてがFになる』だってシュミレーションゲーで出てんじゃん! エヴァでも似たようなゲームいくつかあるし)
まあ、べつに、あの物語のifが見たいんだって話じゃない(見たいけど、それはオタクの二次創作欲と単なる好奇心)
というかどんなifだってオリジナルには及ばないことが自明すぎるし、ハヤカワの頭がトチ狂って『ハーモニートリビュート』とか出版してもそんなのナンセンスだろうってだけだ
ようするにありきたりなハッピーエンドと大団円主義のためにあのマスターピースを汚すならノーセンキューです(そもそも誰もそんなことはしないだろう)
けど、キャラクターを深く見つめる時、ifからの視点は重要だ
人間というものは人生の経験の総決算の上澄みが喋ったり笑ったりしているのであって、それはキャラクターでも同じことだろう(むしろ生理的なノイズがないからその傾向はより顕著になる)
ただそういった経験の総体はあまりに雑然としすぎているから、各々の経験がどんな具合に働いていてどう相互に作用しあっているのかってことはわからないし、どんな優れた作者にも全てを把握することは不可能だ
そういう時に役立つのがifの視点ということになる
例えば、もし人魚姫が王子様のことを見なかったから、彼女は海の魔女と取引することもなく、当然泡になって消えることもなかったわけだ
ようするに因果を一つ一つたどって大元を手繰り寄せているだけなんだけど、「因果関係」って言葉に任せるとちょっと幅が広すぎる
キャラクターの経験が持っている個別の因果関係から要石になっているものを探す、っていうより「ifの視点」のほうがスマートじゃない? だめですか
そんなifの視点を『ハーモニー』のキャラクターに当てはめるとどうなるか
といっても分析できるくらいの情報があるのってミァハキァントァンくらいしかいないけど
まずミァハは結構厄介だ
彼女を形作ってるものを取り去ろうとすると「チェチェン紛争に巻き込まれなかったif」「無意識部族に生まれなかったif」くらいしかなくて(他にもあるんだろうけど本文からifを妄想できる域を超える)、そういうのを取り去ってしまうともうそこに御冷ミァハってキャラクターは完全に残らない
つまりミァハって奴はもう御冷ミァハかそうでないかしかないってキャラなわけだ
これはめちゃくちゃに凄いことなのは言うまでもなくて、つまりミァハに設定された一生は徹頭徹尾無駄がないというか、そうしたものが全部ミァハというキャラクターに反映されていることになる
だからあんなに凄いキャラなんだなあ
さてようやく本題なんだけど、このミァハのifはそんなに重要じゃない(すげえってことがわかるだけ)
トァンとキァンの差が興味深い
この二人について考えるべきifはもちろん「御冷ミァハに出会わなかったif」だろう
キァンの場合、彼女は死なずにすむ
まあ割とそれだけだけど、これは裏を返せばキァンが死んだのは御冷ミァハに出会ってしまったからという当然の因果も浮かび上がる
ここで重要なのはミァハってのはただのキャラクターなんじゃなくて、彼女は抜群の「カリスマ」として設定されてるってこと
キァンはカリスマに出会ったことで破滅してしまうキャラなのだ
作中のキァンの様子を見れば彼女がどこまでも「一般人(嫌いな言葉だけど平易だから使う)」だってことはわかる
帰国したトァンと出会うキァンの様子を思い出してもらえればわかる
彼女には「カリスマ」の導きなんていらないで一人で生きていける
一方でトァンは全く逆だ
そもそも、彼女はあからさまに「陰キャ」の属性に振り分けられるタイプの少女だ
といっても陰キャって言葉もそんなに的を射ていないし、オタクって言葉も真っ当じゃないしコミュ障とも違う
今の社会が自分の居場所じゃないって気がついてしまう利発さと、そういう環境を揺るがしようのないものとして受け入れることのできない愚鈍さを併せ持つタイプの若者なわけだ
そういう若者は往々にして「陰キャ」的振る舞いをしたり「オタク」グループに入るってだけで、そうした空間でさえ居心地悪さを感じてしまうことになる
ちょっと誤解を生みそうな表現だけど「アウトロー」ってこと
そうしたトァンは、けれどミァハに出会うことで軸が定まる
つまり「徹底してアウトローになろう。自分にはそれしかない」って気がつく
ミァハと出会わなかったどうなるだろう?
きっとトァンは一生あの狭苦しい社会で暮らすだろうし、現代なら自殺とか出来るけど、実際に物語でそうなったように成功はしない(残酷な設定だよ本当に)
救いもなく、解決するすべもなく、苦しみながら生きるはずだ
きっと、本当に自殺するタイプなのはミァハよりトァンみたいな人間なんだろうね
ミァハは自殺っていうか彼女の言葉通り自分の身体を無下にすることが武器になるって知ってただけだから、もし別の手段があれば自殺という非効率的方法は取らずにそちらを選ぶはずだ(そして実際にそうすることになる。ああ、なんだか手玉に取られてるみたいに本編のシナリオをなぞってしまう。伊藤先生すごすぎます)
キァンは真っ当に生きることのできる強い人間で、彼女にとってはミァハは毒でしかなかった
トァンは真っ当に生きることができない弱い人間で、彼女にとってはミァハは無二の妙薬だった
で、何が言いたいのか?
実を言うと僕はトァンなんです
美しい赤髪も完璧な美貌も螺旋監察官になれるくらいの学力もなんにもないけど、僕は間違いなくキァンよりトァンな人間だ
上に書いたトァンの性質は全部僕に当てはまる
そして今、こうした何者にも染まれずに苦悩している若者が大勢いるように思う
あれはみんなトァンだ
そして問題なのは、この狭い国にひしめく大勢のトァンは「御冷ミァハに出会わなかったif」の中を生きていること
僕らトァン族はあまりにも不器用で、もうどうしたってこの日本社会のルールに沿って生きることは難しそうだってことが絶望的によくわかっている
けれどみんな、そんな愚か者は世界に一人きりだろうと考えてしまうものだし、現実的な話として親や社会の要請を何もかも突っぱねて形もわからない「アウトロー」を生きるのは難しい
それでも僕はなんとか「螺旋監察官のトァン」のようになろうと努力をしているところだけど、このままどこまで正気でいられるかは怪しいものだ
御冷ミァハさえいれば、彼女が一言「一緒に示そうよ」と手を引いてくれれば、僕らトァン族は外に出られるんです(そこを生きることもまた恐ろしく大変だけど)
でも現実として御冷ミァハはいない
だから僕は御冷ミァハを探している
それにしても、さすがゼロ年代SF開始の鏑矢となった偉人は見えてるものが違うぜ……
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